科学エッセイ

2009年9月10日 (木)

食事する機械。

「バイオ電池」なるものの存在を聞き、これはすごいと早速調べてみたら、SONYのプレスリリースで、2年前、既に発表されていた事を知ってさらにびっくりした。しかし、学者や技術者はまだしも、ほとんどの人がこの事を知らないと思う。知っていたとしても「ちょっと新しい電池の話」くらいの認識かもしれない。仕組みを簡単に説明すると、ブドウ糖を分解する酵素を使い酸素と反応させて発電する電池だ。こういうとかえって難しく聞こえるかもしれないが、要は、甘いもの(実験ではスポーツドリンク)で電気(エネルギー)が作られるということ。これは、食物を食べる事でブドウ糖を摂取し、酵素で分解し、エネルギーに変えるという、我々人間が自然に行っている事を応用した技術だ。実験では、この「バイオ電池」を複数利用して携帯音楽プレーヤーで音楽を再生している。近い将来、旅先でバッテリーが無くなったら、自分が飲んでいるジュースを少し分けてやれば、ふたたび動き出す。なんてことが実現するかもしれない。どの飲料がもっとも効率が良いか?なんて実験も流行るかもしれない。メーカーもより効率の良い(人間にもバイオ電池にも)エナジードリンクを開発するかもしれない。

ここまで想像を膨らまして「はっ!」と気付いた。「これって機械が食事するってことじゃない?」

そう、この技術のシナリオの先には、間違いなく食事する機械(ロボット)の存在が見えてくる。我々人間のように両手を使って食事するかどうかはわからないが、間違いなく、AIBOは、近い将来、ペットフードや、甘い飲み物を、その可愛い舌でペロペロやって食事し、充電は必要なくなるだろう。(まちがいなくSONYはそこらへんも狙っていると思う。)食事を持っていくとしっぽを振って喜んでくれるかもしれないし、我々が食べているものをねだってくれるかもしれない。ブドウ糖を含む食物(植物全般)なら何でも良いのだから旅先でも屋外でも困る事は無い。間違ってブドウ糖を含まない食物を与えてしまったら、賢いAIBOは、体外に出すため「ウンチ」するだろう。これはちょっと面倒かもしれないが、頭のいいAIBOは最初からトイレの場所を知っているし、教えれば間違いなくそのとおりきれいにしてくれる。もう、犬好きにはたまらない。充電が必要でなくなり、自由に動ける事で、鎖に繋がれない猫型AIBOなんかも生れるだろう。こうなったら何でもありだ。ペットロボットが、より身近な存在になる事はまちがいない。今、もっとも欠けている「食べる姿」を見られるのだから.....。世の中でこの「餌やり」に楽しみを見いだしている人は多いと思う。

残念ながら、いつの世にも心無い飼い主はいるもので、餌やリが面倒になり「捨てAIBO」が生れ、「野良AIBO」になってしまう時代がくるかもしれない。「野良AIBO」は、ごみ箱をあさり、そのことが社会問題になるだろう。動物愛護団体は虐げられるAIBOを守る運動をするのだろうか?また、魚型AIBOを池に放す輩も出てきて、池ではブラックバスと生存競争をするかもしれない。こうなればAIBOも立派な外来種(?)だ。


AIBOはまだいい、これが「ASIMO」だったら.....と、考えるとちょっと怖くなる。


----------------------------------------------------------------
※これはSFのお話。実際には、自己修復能力も子孫を生む能力も持たない「野良AIBO」は、時間とともに朽ちていくだろうし、そもそも、飼い主登録され、自力で餌を探すというようにはならないかもしれない。「野良」になった時点で活動を停止するようにプログラムされるかもしれない。賢いAIBOは捨てられた時点で、自らごみ捨て場に行くのだろう。あまりにかわいそうな話だ。そうならない事を願ってやまない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月28日 (金)

1÷3×3=

133

朝の電車に揺られながら、ふと、「無限」ってなんだろう?とか考えていた時、不意に思い出し、携帯を出して昔懐かしい実験をしてみました。

「1÷3×3」=「1」。

当然です。数学的にはすごく当たり前の計算です。携帯の計算機で久しぶりに試してみて、正直驚きました。何を今さらと言われるかもしれませんが、ひと昔前の計算機ではこの計算ができなかったのを覚えている人がいるでしょうか?そう、8桁計算機では「0.9999999」になってしまっていたのです。それは、素数(1とその数字でしか割り切れない数/1,3,5,7,11,13,17..........)という概念を計算機が理解していなかったからです。8桁の計算機なら8桁までを計算し、その先に無限に続く割り切れない数字を切り捨ててしまって計算結果を表示したために起こった現象です。8桁までしかない世界で考えれば、「1÷3」は、「0.3333333」で、さらに×3すると、当然ながら「0.9999999」になり、1にはならないのです。なので、「1」という答えが出た時、思わず「最近の計算機は偉くなった!」と思ってしまったわけです。いつごろから計算機が進化したのかはわかりませんが、8桁しか表示できない計算機でも8桁以上の世界を理解している、素数という概念を理論的に理解しているという事実に感動すらしました。まぁ、それほどの問題ではなく、単にプログラムが少し賢くなったという事なんでしょうが、それでも、何か子供が始めて言葉を発した時のような感動を受け、電車の中でその不思議な喜びを周りの人に知られまいと(恥ずかしいから)無表情を装いながら、心の中で「よしよし」とその進化を褒めてやりました。

「1÷3=0.3333333333333333333333333333333333333333........................」

根っからの数学嫌いという方には考えたくも無い事かもしれませんが、この割り切れないという現象は、数学の世界で起きる事であり、現実世界では必ずしもそうではありません。(数学の世界でも10進法ではそうなりますが、3で割り切れる進法、たとえば9進法とかなら割り切れてしまいます。)というのは、現実世界(数学も現実なんですが...)で1つのもを3つに割る事ができないのか?というと、そんなことはありません。コンパスと三角定規があれば、1cmの線分を正確に三等分する事はわけもありません。三等分された線分は、数字的には「0.333333333333........cm」で、無限に割り切れませんが、現実には切り分ける事ができます。また、ひとつの丸いケーキを三等分することも簡単にできます。円の角度は360度なので、一人当たり120度で切り分ければ三等分です。(そもそもどうやって360に分割したかという事は置いといて...。古代バビロニアくらいまで遡らなければいけないらしいので.....。)

このように、この計算は、現実でありながら、非常に概念的な要素を持つものです。それを、このちっこい携帯の中に組み込まれた計算機がちゃんと理解しているなんて、なんだか嬉しくなってきませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月22日 (土)

宇宙は無限だというけれど。

よく、宇宙は無限だというけれど、本当でしょうか?
宇宙の誕生については、だれもが一度は耳にした事のあるだろう「ビッグバン理論」という有力な仮説があります。私なりの解釈では、それまで何もなかったところで「ビッグバン」いう爆発(?)....。と、とにかく突然、宇宙ができてどんどん膨張していって、その間いろんなことがあり、星もできれば星雲もでき、その中の小さな惑星で生命も誕生し、この広大で無限に思える現在にいたっている。ということでしょう。ビッグバンが起きたのは、およそ137億年前と計算されています。ちょっと待って、以前のエントリー「僕らはひとりぼっちじゃないよね?」で、調べたところ、すばる望遠鏡で128億8千万光年先の銀河が観測されていました。そうすると、もう少し先のお話になるかもしれませんが、137億光年先の銀河だって観測できてしまうかもしれません。137億光年先から光が届くためには137億年かかります。つまり、その光は137億年前の光です。.............................もう、お分かりになりましたね。私の疑問が。
その光が発せられた年、ビッグバンが起こった事になってしまうのです。なにやら眉唾な話になってきました。無理やりにでももう少し考えてみましょう。もし、そこでビッグバンが起こったのだとすると、そこが始まりで、137億光年離れた我々のいる場所が、一番端だという事になってしまいます。すばる望遠鏡がどちらを向いて観測するのかはわかりませんが、どちらかを向けるのは間違いありません。その時、後ろを振り返ったら、何が見えるでしょうか?やっぱり無数の星々が見えるはずです。そんなわけはありません。とすると、すばる望遠鏡でも137億光年はなれた星は観測できないのかもしれません。135億光年くらい先まで見えたとして、その時振り返っても、まだ2億光年分の宇宙が残ります。これならなんとなく納得できます。

「えっ、、、? て、ことは、宇宙は直径137億光年っていうこと?」


※もちろん、この私の考えはどこかで間違っているんだろうと思います。本当にその理論を研究されていいる方々からすると、単なる言葉遊びでしかないかもしれません。だから、本気にしないでくださいね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月14日 (金)

星は流れていない。

今週13日を中心にペルセウス座流星群が観測できる。ロマンティックな夏の夜の天体ショーだ。ちなみに今年、2009年は「国際天文年」にもなっている。ペルセウス座流星群は、しぶんぎ座流星群、ふたご座流星群と並ぶ三大流星群とされる。晴天に恵まれ暗い夜なら、1時間に30個を超える数が観測できる。夜空を流れる星に思いをはせ、願い事をするにはまたとない機会だ。

「ペルセウス座流星群」。とてもいい響きだ。まるで、たくさんの小さな星々が常に流れている情景が思い浮かぶ。そこは流れ星の楽園で、神々が戯れ、輝く光の国。そんなイメージすら浮かんでくる。年に一度地球が近づく時、その一端を垣間見る事ができる。いつかそこに行ってみたい、流れる星々の中に身を置いてみたい。そんな夢のような世界を思い、願いをかける。まさに夏の夜の夢だ。

ところで、この流れ星、充分夢の無い大人に育ってしまった人なら誰もが知っていると思うが、ほんとうに星が流れているのではない。何十光年、何万光年離れている恒星がこんなスピードでこんな距離を移動したらとんでもない事になる。宇宙空間に漂う「○○」が、地球の大気に飛び込んでくることで、摩擦を起し、熱と共に光を発しながら流れているのだ。飛び込んでくるのは、直径1ミリから数センチ程度の「チリ」。小惑星でも隕石でも無く、豆粒大ほどの「塵」だ。小さな隕石ならまだしも、小惑星なんかが飛び込んでくれば、あっというまに我々は滅亡の危機に瀕する。願い事なんかしている場合じゃない。大惨事だ。

ペルセウス座流星群の母彗星は、太陽の周りを我々地球と同じように回っている。同じというのは少し語弊があるが、とにかく大きな楕円軌道を描きながら回っている。彗星は、その軌道にたくさんの塵を撒きながら移動している。つまり、太陽の周りには大きな楕円の「塵の川」「塵の道」ができる。我々の地球がその「塵の川」を横切る時、その塵のいくつかが大気圏に飛び込んできて「流れ星」になる。簡単に説明すれば、ただそれだけの事だ。多くの不思議に言える事だが、わかってしまえばなんてことはない。

科学の進歩は、我々に大きな恩恵をもたらしてくれるが、夢やロマンというものを、もぎ取っていくように感じられて仕方がない。今の殺伐のした世の中が、科学がもたらしたもうひとつの側面で無い事を祈りたい。何事もわかってしまう事が善ではない。わからないからこそロマンがあり、夢や希望を持てる。アダムとイブが知恵の実を食べ、楽園を追われたように我々人類はどこに追われていくのだろうか? たとえ、現実がわかってしまっても、夢やロマンは持ち続けたい。クリスマスの夜、サンタクロースを待ち続け、わくわくしながら眠りにつく子供のように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 3日 (月)

僕らはひとりぼっちじゃないよね?

2006年10月、国立天文台のすばる望遠鏡が最も遠い銀河の世界記録を更新している。おそらくその記録はまだ破られていないのだと思うが、その距離、実に128億8千万光年。宇宙が誕生したとされるビッグバンから、7億8千万年後の時代で現在確認されている最も古い銀河だという事になる。光年というのは、天文学で用いられる距離の単位である。「年」という漢字が使われているが時間の単位ではない。光が1年に進む距離という意味だ。星と星との距離はあまりにも遠く、通常の距離の単位で表すと、それこそ天文学的数字になってしまうので「光年」という単位を使う。試しに換算してみると、真空中で光は、299 792 458 m/s の速度で進むので1光年は 9,460,730,472,580,800mになる。約9兆4607億kmという途方もない距離だ。つまり、128億8千万光年という距離は、キロメートルで表記すると9,460,730,472,581km ×12880000000で、1,218,542,084,868,432,860,000,000km 1じょ(禾へんに予)2185垓4208京4868兆4328億6千万kmという常軌を逸した数字になる。「じょ(禾へんに予)」なんて桁はそもそも漢字も変換されない。

見方を変えよう。我々は光でものを見ている。発光物は、その発する光を、発光していないものは反射光で見ている。光の速度があまりにも速いので、身近にあるものは、タイムラグ無しに見る事が出来が、あまりに離れているとそうはいかない。つまり、すばる望遠鏡で観測された最も遠い銀河は、光が128億8千万光年もかかる遠い所にある。簡単に言うと、我々は128億8千万年前に発せられた光をみていることになるのだ。今の望遠鏡の精度では単なる光の点にしか見えないが、これが果てしなく解像度の高いものなら、128億8千万年前の風景が見えるはずだ。もしかすると128億8千万年前の生命の営みが見られるかもしれない。いや、この銀河は宇宙が誕生したと同時にできたとしても7億8千万年しか経っていない、我々の地球と同じ条件の惑星があったとしても、さすがに生命は誕生していないだろう。我々の太陽は、およそ50億年前に誕生している。地球が誕生したのはその5億年後、最初の生命が誕生したのはさらにその7億年後なので、太陽の誕生から12億年かかったことになる。万が一早熟な生命が誕生していたとしても、おそらく顕微鏡ででも見なければ発見できないだろう。

128億8千万年前の光を見ているというのはどういうことだろうか?今、瞬時にそこに行けたとして、その世界は128億8千万年後の世界だということになる。ちょっとしたタイムスリップ気分だ。光の速度で航行するとしたら、さらに128億8千万年かかるわけで、到着するのは現在すばる望遠鏡で見えるものから257億6千万年後に到着する事になる。ちょっと待った!恒星の寿命はその星の質量に大きく関係がある。大きくて明るい方が寿命は短い。我々に大きな恵みをもたらしてくれている太陽は、宇宙の中ではそんなに大きい方ではないが、その寿命は100億年とされている。太陽の2倍の質量の恒星なら寿命は12〜13億年しかない。小さい方が寿命は長いが光度は低い。つまり大きくて明るい星ほど寿命は短いということになる。

これは重大な問題だ!

すばる望遠鏡が捉えた最遠の銀河、128億8千万光年先の銀河に、もし、今すぐ到着できたとしてもそのほとんどの恒星は寿命が尽き、太陽の恩恵を受けられなくなった惑星は太陽の断末魔の膨張で太陽に飲み込まれるか、冷えて、死の惑星になっていることになる。宇宙の誕生が137億年前、その時生れた恒星で我々の太陽より大きいものはすべて寿命を迎えていることになる。それだけじゃない、100億光年以上離れている星は、今見えている光が生れた時点の光だとしても、もはやそこにその星は存在しない。存在しないが、地球上から見る限り、我々が見る星空にはその星が、これから100億年間、輝き続ける。

眩いばかりに数えきれない星々が輝く夜空、広大な星の海。しかし、将来我々が銀河の海に乗り出した時、そこには暗黒の空間が広がるのみで星なんかひとつもないかもしれない。太陽が無ければ生命も存在できない。今は無限に広がる星の海に我々の地球があり、無数の星々の中には我々と同じような知的生命体が繁栄していて、いつかその仲間入りが出来る、我々はこの宇宙でひとりぼっちじゃないと思っているが、本当にそうなのだろうか?我々に見る事が出来る光が遠い過去のものでしかないとしたら、今、この瞬間の宇宙がどうなっているかなんて、だれも保障できないんじゃないだろうか。

とはいうものの、そう悲観的になる必要はない。ビッグバンの時ほどじゃないだろうけど、今も星々は生れ続けている。(はずだ。)それに、地上から肉眼で見られる夜空の星々は、一番離れているアンドロメダ銀河でも、たった230万光年だし、恒星なら20〜30光年と、まるでお隣のようなものだ。これらがそう簡単に寿命を迎えるとは思えない。宇宙に旅立って、少なくとも我々の銀河を出るまでは星の海に揺られる事が可能だろう。
ただ、その先は、どうなっているかわからない。たとえ真っ暗ではないにしても、今見えている星々はすでに無く、新しい星々の世界になっているはずだ。我々が今、望遠鏡で観測している星空とはまったく違う景色であることには間違いはない。

「ほんとに、僕らは、ひとりぼっちじゃないよね?」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 1日 (土)

超常現象つながりで、今度はUFO

超常現象つながりで今後はUFOを考えてみた。

超常現象とひと括りにしてしまうのは、UFOの場合不適切かと思う。ここで考えるのは、未確認飛行物体としてのUFOではなく、ちゃんと宇宙人が乗った宇宙船としたい。霊とは違ってれっきとした宇宙人が乗っていて、はるか彼方宇宙からやってきてくれるのだから、もちろんデジカメであろうがフィルムカメラであろうがちゃんと写るだろう。事実、これまで数多くのUFO写真が撮影されていて、中にはNASAのお墨付きという眉唾なものまである。もちろん、目撃証言も多い。これらは特に霊感の強い人達ではなく普通の人々だ。そう、だれもがUFOに遭遇できる可能性を物語っている。残念ながら私はまだUFOを目撃するという幸運に見舞われていない。もちろん撮影にも成功していないが、いつかは私もという思いで宇宙(そら)を見上げている。

では、UFOが地球に飛来する目的とはなんだろう?

まず、知的生命体の誕生について考えてみよう。我々の住んでいる地球だって生命が誕生し、どうにかこうにか月まで行けるところまで科学を進歩させた。ここ数日は宇宙ステーションに滞在する若田光一さんのニュースでもちきりだ。我々人類にとって、この先に広がる宇宙時代は確約されたも同じだ。近い将来、スペースコロニーができ、宇宙空間で生れ育つ「スペースノイド」の誕生も容易に予想される。かれらは「ニュータイプ」と呼ばれるのかもしれない。これだけのことを我々地球人は、旧人といわれるネアンデルタール人より現生人類の直接の祖先といわれる新人「クロマニヨン人」が覇権を握ったところから数えて、たった20万年で成し遂げたのだ。宇宙の誕生から、ちょうど137憶年経っている事を考えると、そのわずか68,500分の1の期間で進化した事になる。文明が生れてからはどうだろう?最初に発生したとされるチグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア文明は、紀元前3,500年だ。ちょうど5,509年前という事になる。およそ2486840分の1の期間だ。137億年という途方もない時間の中で、5,500年が同時期に重なる確立はそんなに高くない。

人類という尺度ではなく、生命という尺度で考えてみよう。地球上に生命が誕生したのは40億年前。地球が誕生してから6億年後の事だ。ということは、条件を満たした惑星が誕生して偶然にもそこに生命が誕生し、まがりなりにも宇宙に飛び立てるようになるまで実に宇宙の歴史の3分の1の時間を要するという事になる。これがほんの少しズレただけで出会える可能性はぐっと少なくなってしまう。さらには、恒星だけでも10の23乗(1,000,000,000,000,000,000,000,000個)あるという途方もない星の海で出会える確立はそんなに高くない。

そんなとてつもない偶然を乗り越えて地球までやってきてくれた宇宙人が、どうして我々と直接コンタクトを取ってくれないんだろうか?どうしてピンボケ写真でしかその姿を見せてくれないんだろうか?我々の文明が彼らのそれと比べてまだまだ幼く、その衝撃に耐えられないと考えられているからだろうか?あるいは、地球人が彼らの食べ頃になるまで適度に熟れるのを待っているのだろうか?侵略し、植民地化を考えているならすでにそれは成されているだろう。なんといっても我々はまだようやく月に行けるだけの科学技術しか持ち合わせていない。広大な星の海を旅してきた彼らにとっては赤子の手をひねるより容易いだろう。そもそも地球を観察するだけならわざわざ大気圏を飛行する必要はない。幼稚な我々だってGoogle earthで地球の至る所を見る事ができる。彼らの技術力を持ってすれば衛星軌道から米粒に描かれた七福神の絵を見る事だって造作も無い事だ。見るだけではつまらないからバスに乗って直接触れ合うサファリパークのような感覚なのかもしれない。それなら、餌を与えてその生態をもっと見る方が楽しい。我々だってライオンが生肉に飛びつく様をバスの中から見るためにサファリパークに行く。ただ姿形が見たいだけなら動物園で充分だ。

いや、すでに人類と宇宙人はコンタクトをとり合う仲で、アメリカネバダ州のエリア51には、宇宙人の方々にお越し願って色々ご教授いただいているという情報もある。そこで様々な技術供与をいただき、地球の科学は飛躍的に進歩したのかもしれない。アポロだってスペースシャトルだって地デジだって宇宙人の教え無しには成し遂げられなかった事かもしれない。我々の理解力が乏しいから、恒星間航行が可能な宇宙船を建造する技術を教えてもらっても、まだまだ大気圏を脱出するために苦労を重ねているのかもしれなし、数々の事故や不祥事も起こしてしまう。それだけの科学技術を持っている優れた文明なら、経済や宗教問題を解決する知恵も間違いなく持ち合わせているはずだ。その有り難い忠告をちゃんと理解できないからリーマンショックも起きたし、核問題も未だに解決しない。ほんとに出来の悪い生徒でごめんなさいと地球人を代表して謝りたい。

この広い宇宙のどこかでたまたま同時期に知的生命体が誕生して、科学技術が地球のそれよりはるかに進歩していて、砂漠の中で金の粒を見つけるように地球を発見し、わざわざ危険を冒してここまでやってきてくれる確立は、「0」に等しい天文学的数字かもしれない。でも、これは天文学の話、そんなことがたまたま起こっても決して不思議じゃない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月31日 (金)

心霊写真に関する素朴な疑問。

いくつかのカメラメーカーからフィルムカメラ(一眼レフ)の開発中止のニュースが発表されて久しいですし、売場に行ってトイカメラを除くフィルムカメラを探すのが難しくなってきました。世の中デジカメ全盛という感じですが、デジカメでも心霊写真は写るのでしょうか?私の勝手な印象ですが、心霊現象というものはどうにもアナログ的なイメージがあり、デジタル技術とは相容れないような気がしています。そんなことをつらつら考えていると頭の中に疑問符(?)が何個も浮かんできました。そもそも心霊現象とはなんぞや?という議論は置いておきます。そこを考え始めるとさらに疑問符が増えるだけですから...。

カメラは正直だと考えられていますが、本当でしょうか?数々の現場で証拠写真として採用されている事を考えるとカメラという機器は、人間の曖昧な感覚とは違い、正確にその実態を写し出していると考えられています。以前、プロカメラマンに、人の目に映っているそのままの夕焼けは写真で撮れますか?と聞いた事があります。答えは否。自分でも実験してみましたが、確かに見たままには撮れません。夕焼けの赤い雲を写し取ろうとしたら太陽は明るくなってしまいますし、赤い太陽を撮ろうと思えば、背景の夕焼け雲は暗くなってしまいます。これはおそらく絞りの問題だと思います。人間の目には夕焼けは赤く、太陽も赤く映ります。カメラでは2種類の写真が撮れるということになります。どちらが真実なのでしょうか?最近の賢いデジカメならこの辺はちゃんとデジタル処理して素晴らしい夕景を、絵に描いたような叙情的な風景をもたらしてくれるかもしれません。あれ?これは真実ですか?

話を心霊写真に戻しましょう。
心霊写真にはその名の通り、霊が写っているのだと思います。私自身、新聞やテレビで多くの心霊写真を見た事があります。残念ながら撮った事はありません。霊(幽霊)の存在は、遠い昔から伝えられてきていますし、江戸時代の浮世絵にも多くの幽霊が描かれています。そのほとんどは白い着物を着て頭に三角巾(額烏帽子とか紙冠と呼ばれるもの)で、足がありません。これは、納棺の時の衣装で、死者が地獄の悪魔から逃れられるようにとか現世の人々の思いがこもったものです。幽霊はそのまま現世に残ってしまった人々なので、その死に装束のまま迷い出てきてしまうということだと思われます。足が無いのは円山応挙が描いた幽霊がルーツとされる説があるようですが、そもそも応挙は写実派なのでそんなものは描かないとか、応挙が生れる前に描かれた絵にも足は無いとか色々言われていますが、とにかく日本の幽霊には足が無いと長い間伝えられてきています。ちなみに外国の幽霊にはちゃんと足があるそうです。これらは想像上のものなのでしょうか?写真が無かった時代、見たものを絵にするのは自然の流れです。では、江戸時代の人にはそう見えていたのでしょうか?なぜ、現代の心霊写真にはそういう姿が写されていないのでしょうか?納棺の際には、宗派にもよりますが今もその装束の伝統は受け継がれています。

でも、心霊写真の世界は違います。その時代に合わせた流行のファッション(?)に身を包んで写っているように思います。その人が生きていた時の服装で写っているとしたら納得できます。だとすると死んでから数年しか心霊写真には写れないのでしょうか?江戸時代の幽霊は現代の写真には写らないのでしょうか?歴史上もっとも多くの犠牲者を出した第二次大戦で亡くなった方々は、さぞこの世に未練を残されていると思われます。その方々はどうでしょう?たまにそういう心霊写真もあるように思いますが、これまでの死者の数を考えると少な過ぎる気がします。

外国の場合はどうなのでしょうか?外国の心霊写真というものを見た記憶が無く、よくわかりません。日本のようにたくさんの心霊写真が撮られているのでしょうか?外国の幽霊には足があると聞きます。では、サイパンなど戦時中に多くの日本人が亡くなった場所ではどうでしょう?そこでは日本人の幽霊がでるのでしょうか?装束はどうでしょうか?軍服のままなのでしょうか?足はあるのでしょうか?また、外国人の幽霊は、日本には来られないのでしょうか?逆に日本の幽霊は外国には行かれないのでしょうか?謎が謎を呼び収拾がつかなくなりそうです。

最後にもうひとつ。幽霊と同じく目に見えないものとして日本では実に様々な妖怪の存在が伝えられています。彼ら妖怪達が写った心霊写真というものを見た事がありません。妖怪は霊ではないので心霊写真とは言わないかもしれません。河童のミイラだとか、鬼の手首だと色々なものが日本各地で伝え残されています。でも、河童の写真とか化け猫の写真とか「あぶらすまし」とか「ぬらりひょん」とか「子泣き爺」とか「砂かけばばあ」とか「唐傘」とか「のっぺらぼう」とか「一反木綿」とか「ろくろ首」とか「目玉親父」とか「ねずみおとこ」の写真は無いのでしょうか?そう遠くない昔に噂された「口裂け女」の写真も見た事がありません。
「宇宙人の写真はあるのに!!」

| | コメント (2) | トラックバック (0)