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2010年4月30日 (金)

エイリアンとは接触すべきでない。

「エイリアンとは接触すべきでない。」
天才物理学者スティーブン・ホーキング博士が25日、アメリカのテレビ番組でそう発言したようだ。博士は、発達した科学文明を持つ異星人が存在する可能性は高いとしたうえで、コロンブスのアメリカ大陸発見を例にあげ、この事実はアメリカ先住民にとって決して幸せな結果をもたらしてはいない。それと同様の結果になる可能性は極めて高く、したがって、人類は異星人と接触を試みるべきではないという見解を披露した。さらに、自らの資源を使い果たした異星人は、遊牧民となって、征服して移住できる惑星を探すだろうとも述べたようだ。確かに、われわれ人類の歴史を紐解いてみると、ホーキング博士の見解は、充分すぎるくらいの説得力を持っている。人類の歴史上、異文化の接触で幸福な結果をもたらした事実を私は知らない。異文化の遭遇は常に侵略と戦争の繰り返しだった。

専門課の間では、一方的な推測、友好的な異星人に遭遇する確率も同じくらいではないか?としている。確かにそういう楽観論もあるだろう。日本の総理のように「友愛」精神であたれば、この宇宙は平和なのかもしれない。彼ならクリンゴンとでも、バルタン星人とも、フリーザともガミラスのデスラー総統とでもちゃんと話し合えば仲良くできると考えるだろう。しかし、そんな専門家の意見でも、確率は半分。つまり、残り半分は、ホーキング博士の意見と同じだと認めている事になる。50パーセントのリスクは決して低くない。それだけのリスクを冒してまで、得るものは大きいと確信できるのだろうか?

たとえば、たまたま訪れた異星人が非常に高度な文明と文化的思考を持ち合わせている完璧な民族だったとしよう。一部の地球人は彼等を神と崇めるかもしれない。我々にとって、それは得るものの多い魅力的な接触になるだろう。慈愛に満ちた彼等は、この低級な地球人を侵略することは無いかもしれない。しかし、彼等が完璧であればあるほど、不完全な我々地球人の存在を野放しにしてくれるとは考えにくい。まさに「神の審判」がくだるのかもしれない。

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2010年4月29日 (木)

どういう工法なんだろう?

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近所の建設現場で発見。結構、大きめの敷地におそらく大きめのビルが建設されようとしている。ふと、手前にガラスの外壁のような建造物が!全体的にはどうみても、まだ基礎工事の段階に見えるのに、ここだけご丁寧にガラスまで入っている。しかし、裏側はハリボテで、屋根も無いので仮のビニールシートが雨を凌ぐ仕組み。この先、この建造物はどうなっていくんだろう?なんで、最初にここだけ完成みたいなものが建っているんだろう?なんとなく不思議です。

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2010年4月28日 (水)

日本中が真っ赤になる一週間!

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高速道路4社からゴールデンウィーク中の渋滞予測が発表された。期間中、なんと、10km以上の渋滞が444回と「上限1000円」が適用され、大幅に増えた去年の420回を上回る見込みだ。例えば10kmで計算したとしても、実に4,440kmが渋滞することになる。ちなみに、下りのピークは5月1~3日、上りは4~4日の見込み。平日の4月30日も上限千円の割引が適用される。
30km以上の渋滞は昨年実績の59回を下回る50回と予測されている。これだけで、さらに1,500km。最大の渋滞は、関越自動車道下りの花園インター(埼玉)で5月2日午前に50kmに達すると見込まれているので、これらを積算すると、渋滞の総延長は、7,000〜8,000kmが渋滞すると考えても大げさじゃないだろう。国土交通省道路局によると、日本の高速道路の総延長は、9,036.9km。その内、実延長(「総延長から「重用延長」「未共用延長」「渡船延長」を除いた延長)7,560.1kmなので、このゴールデンウィーク中の渋滞をまとめると、日本の高速道路全てが渋滞してしまう計算になる。まさに日本が赤く染まる一週間だ。想像しただけで恐ろしい!!!

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2010年4月27日 (火)

木賊の新芽はレースの様で。

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近所で発見した木賊の新芽(?)木賊ってこういうふうに成長するんだと、初めて気づきました。節と節の間隔がだんだん伸びていって、最初、白かった茎(?)の色が濃いグリーンになっていく。節はというとまるでレースの様。今、まさに成長の時期です。注意して見ているとそこかしこに春の息吹が感じられます。

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2010年4月26日 (月)

無責任な大人の発言は結構大事な気がする。

先日、友人たちと話していて、自分がなぜ今の職を選んだかを考えてみた。もちろん、今の私の職は天職だと思っているし、毎日が充実し、楽しくて仕方が無い。時に苦労もあるがそれもひっくるめてこのデザイナーという職を選べたことに感謝している。私がデザイナーになりたいと思ったのは、中学生の頃。子供の頃から絵を描くことが好きだった私は、おぼろげにそういう方向に進むんだろうと考えていた。とはいえ、学校の美術の授業で水彩画なるものがめっぽう苦手だった私にとって画家という道は考えの中に無かった。漫画が好きだったから、漫画家という道も考えなくもなかったが、根気が続かない私のこと、まともに一作どころか一話分もかけないと思った。そもそも絵を描くことが好きなのと、漫画が描けるのは別物だと今となっては思う。とはいえ、なんとなくその意味もわからずデザイナーになりたいかも?と思った私は、それでも中学時代は、どうしたら良いかわからず、その備えとなるようなことはしていなかった。しかも、今のグラフィックではなく、インテリアデザイナーとか勝手に思っていた。自分の部屋のことすら考えたことも無かったのにだ。そんな私にある方向を示してくれたのが、身近な大人からの「たっちゃん、絵、好きなんやったら大阪芸大に行ったら?」という今考えればあまりにも無責任な発言だった。
思えば、絵を描くようになったのも、きっと「たっちゃんは、絵がうまいなぁ、絵描きになったらどや?」とか「絵の才能あるんちゃう?おいちゃんにはわからへんけど。」とかいう周りの大人の無責任な発言によるところが大きい。多かれ少なかれ、子供は大人の発言に影響を受ける。そうして、無限にある選択肢の中からいくつかが選べるようになり、さらに、自分にとって何が一番良いのか考えることができるようにもなる。誰しも、無限の海原に放り出されて、「さあ、どこに行くのもあなたの自由よ。行きたいところにお行きなさい。」と言われたからって、決められるもんじゃない。ましてや、その先に何があるのか想像もつかない無知な子供に出来ようはずもない。もしかしたら、私が「デザイナー」という言葉を知ったのも、「たっちゃん、デザイナーになったらどうよ、おばちゃん、デザイナーが何する人か知らんけど。ほほほ。」のようなとっても無責任な言葉からだったかもしれない。
こんな感じで、昔は、親戚の大人や、近所の大人、場合によっては親も、無責任に子供の将来を語ってくれた気がする。そんな「無責任」な言葉をかけてくれる大人が、今は少なくなったんじゃないだろうか?皆が自分の言動に「責任」を必要以上に取らなければいけないような危機感を抱いて、何も言えなくなっているような気がする。子供にとって無数に浴びせかけられる大人の発言のひとつが、その子の人生を左右してしまうことなどそんなに多くないように思う。多くの言動の中から選ぶのは、子供自身だ。ただ、かけられる言葉が少なければ話は別だ。選択肢が少なければ、選ぶことができない。結果、大人の敷いたレールの上を無理矢理歩かされるような間違いを冒すことになる。それが親の言うことならなおさらだ。大人が真剣に考えれば考えるほど、子供に指し示す方向は狭くなる。今の先行き不安な世の中じゃ「公務員」など「安定した就職先」となってしまうだろう。そう言っておいて、今の子供たちには「夢」が無い。などと、よくも言えたものである。

もしかしたら、本当に子供たちのためになるのは、近所のおばさん達や、親戚のおっちゃんの「とっても無責任な発言。」なんじゃないかと思う。

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2010年4月25日 (日)

働く自動車。

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なんだか、見ようによってはカブトムシにも見えるし、大きな首長竜にもみえるクレーンのような工事車両。前足(?)の小さなキャタピラがキュートです。

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2010年4月24日 (土)

やっぱり目は付けて欲しい。

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何かを啓発させるポスターでも、新作のホラー映画のポスターでも何でもありません。単なるショーウィンドウです。でも、通り過ぎることはできませんでした。なんだか怖い。立ち止まらせたという意味では、効果があったのかもしれませんが、なんだかあんまり気持ちのいいものではありません。まぁ、意図的に怖がらせようとしたものではないでしょうし、これを怖いと思ったのは私だけかもしれません。商品である服に目を向けさせようと、マネキンを無個性にしたんだと思いますが、今の現代社会を映し出しているようで、さらに怖い。

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2010年4月23日 (金)

ふわぁふわぁ。

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小春日和の午後は、こんなところにもぐり込んで、うたた寝したいですね。

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2010年4月22日 (木)

東京タワーがかっこいいぞぉ!

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今年の照明、遠くから見ていた時は、上部の点々しか見えなかったので、なにか味気ないと思っていましたが、近づいてみると、なかなかどうしてかっこいいじゃありませんか。たぶん、スカイツリーよりかっこいいと思うなぁ。昭和生まれだから東京タワーに哀愁を感じてしまうんだろうか?

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2010年4月21日 (水)

もはや昭和な感じ。

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緑の公衆電話に電話帳、テレホンカードは、もはや昭和を感じさせる。世の中がすごいスピードで進んで行ってる。そのスピードについていくのが大変で、たまには休んでみたくて、でもできなくて、時代を追いかけてきていたつもりが、いつのまにか追い立てられていることに気づいて、立ち止まれなくて、ゆとりがなくて、だから時間がゆっくり流れていたような気がする「昭和」が恋しい。日本人は、あの時代に何かを忘れてきたような、そんな気がする。

こうするとさらに「昭和」

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2010年4月20日 (火)

カミナリを落とすのは妻である。

B氏から聞いた話。

カミナリが落ちた田や畑では、作物が他よりよく育つ。科学的な根拠があるのかどうかはわからないが、昔の人はそう考えていたらしい。たまたま、偶然にそれを目撃した人がいたのか、誰かが流した根も葉もない噂話かはわからないが、都市伝説ならぬ田園伝説として一部で伝えらている。八百万の神を信奉していた頃の人々は、それを天の恵みか神様からの授かり物と考えたとしてもおかしな話じゃない。米は天の神と地の神が結ばれて、生まれた恵みの子。だから、カミナリは、「稲」の「妻」と書いて「稲妻(いなづま)」という。

そういえば、カミナリも「雨」に「田」で「雷」と書く。あながち単なる噂話と片付けられない。

いつの世もカミナリを落とすのはやっぱりカミサンなのだ。

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2010年4月19日 (月)

クジラとニワトリはどちらが可哀想なんだろうか?

日本の養鶏で大半を占める種、ホワイトレグホン。このニワトリは高品質の卵をよりたくさん生めるよう高度な技術を結集して作り上げられた。卵を生むことにかけては、最も高性能なニワトリだ。その数、年間300個。この性能は通常のニワトリの15倍にあたる。文字どおり卵を生む力を極限まで高められた精密機械、あいはF1のようなものだ。ひとつのタマゴを体内で作るために要する時間はおよそ25~26時間、現在、もっとも多くの蛋白質を作り出せる生物といっても過言じゃない。そんなホワイトレグホンもまだまだ完成されている訳ではない。アメリカの研究所で日々その性能は高められ続けている。ただし、その生産能力は限界に近い。これ以上の数を生産させるには種として不可能な高みまで性能がチューンアップされてしまっている。そこで、現在は、世界各国の国民性や好みに合わせた品質を産み分ける研究が重ねられている。黄味の大きいもの、殻が割れにくいものなど多岐に渡る。日本人は、黄味が大きく色鮮やかで、割ったとき、黄味の高さが高く味の濃いものを好む。そういう人間の勝手な嗜好に合わせるべく、日々ローカライズが行われ続けている。さらにそうして出荷されたホワイトレグホンは、日本で他の品種と交配させられ、例えば、タマゴかけご飯用のタマゴのように、より、細分化されている。いつか、オムレツ用や、すき焼き用、関東風玉子焼き用や関西風だし巻玉子用なんていうのも店頭に並ぶかもしれない。
果たして、人間はそこまで自らの嗜好に合わせ生命を最適化させて良いものだろうか?捕鯨の是非を論じる際に家畜が引き合いに出されることがある。クジラは自然に生きているから獲ってはいけないが、家畜はそもそも、人間が食べるために飼育しているものだから、可哀想ではないと。
どちらも人間のエゴで、かたや絶滅の危機に貧しており、自由で自然な保護運動が起こり、もう一方は、もはや自然界はあり得ない生物としての限界を超えたチューンアップが施され続けている。

果たして、クジラとニワトリでは、どちらが幸せなんだろうか?
どちらが可哀想なんだろうか?

そもそも、人間にそれを論じる資格があるのだろうか?

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2010年4月18日 (日)

自動鐘つき機ぃ〜(どらえもん風に)

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新しいカメラを持って近所をぶらぶら。お寺でしだれ桜を撮影していたら、後ろで「ごお〜ん」と鐘の音。「あっ、お坊さんが鐘をついてるんだぁ。」と鐘つき堂を振り返ると、人の気配がない。「なに〜!」「いや、でも、もう、つき終わったのかもしれない。素早いお坊さんだ。」と近づいてみると、さらに「ごお〜ん」気を許していた私はその大音響に思わず後ずさり。「ひ、人がいない。」「人がいないのに勝手に鐘が鳴っている!」その後も、さらに「ごお〜ん」「ごお〜ん」と5回鳴りました。最近のお寺さんの鐘は時間になると自動的に鳴るんだぁ。と関心。いやしかし、この鐘をつくって行為も修行のひとつじゃないのか?自動で鳴らしていいのか?と、なんとなく釈然としない気持ちのままそのお寺を後にした。

今日もまた、ひとりでに鐘は鳴る。

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2010年4月17日 (土)

やりたい事がなかったら学校へ行こう。

やりたいことが見つからないなら学校へ行こう。とにかくいろんなことを勉強しよう。いや、勉強しなくても、とにかく家にひきこもってないで外に出よう。ものごとを知れば知るほど選択肢が増える。私は、勉強は好きじゃなかったけど、とにかく無遅刻無欠席で学校には通った。高校時代の後半は、芸大に行ってデザイナーになるという目標が見えたので、学校は規定の出席日数が許す限り毎日のように早退して、アトリエに通ってデッサンに明け暮れていた。私の通った高校は商業高校だったので簿記や算盤、商法も勉強した。もちろん、今やっているデザイナーとは直接関係のない学問だが、無駄だとは決して思っていない。経営者になったとき役に立つからなどと大人ぶった説教くさいことを言うつもりは毛頭ない。事実、餅は餅屋で経理に関しては税理士さんに任せている。ただ、それを勉強したから、この道は自分が生きる道ではないとわかっただけだ。もしそこに生き甲斐を見出していたなら、私は今頃その道に進んでいただろう。でも、やっていなければ、それすらわからない。選択するというのは複数のものから選ぶということだ。一つしかないものを選択するとはいわない。それは選択の余地がないからだ。
たくさん勉強したからといって、必ずしもその知識が活かせることをしなくてもいい。せっかく一生懸命頑張ったのにもったいないと制限して自分を縛ることはない。お金をたくさんもっているからって、全部使う必要はないのとおなじ。
やりたいことが見つからないのは、ただ、そこに何があるか知らないだけだ。目隠ししてたら、テーブルの上にある料理のどれが食べたいかはわからない。背が足りなくてテーブルが見えなければ、やっぱり選べない。テーブルが全部見渡せて初めて自分の好きなものが食べられる。たとえそれがお新香でもいいし、全部食べる必要もない。ただ、食べたいものが選べるだけ。テーブルから落ちてくるものを待ってたんじゃ、いつまでたっても食べたいものは食べられない。
たとえまだ、やりたいことが見つかっていなくても勉強はできる。誰にでも平等に与えられた権利だ。なにもやらずに、ただ、だらだらしてたって、何も見つからない。知らないんだから見つけられる訳がない。自分のやりたいことが向こうからやってきてくれることなんて絶対無い。ましてや人から与えられることでも無い。

とにかく、学校へ行こう。
人間の営みなんて、所詮、無駄の積み重ねだ。その中で、たった一つでも輝くものが見つけられたら、それだけで、きっと幸せな人生がおくれる。できる限り多くの中から自分自身で選んだなら、少なくとも後悔することは少ない。狭い世界で選択の余地なく選んだものは、広い世界で多くの選択肢を知ったとき、きっと後悔するものだ。

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2010年4月16日 (金)

源氏香。

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まるで源氏香のようですが、門前仲町です。都営大江戸線門前仲町駅ホームで見られます。

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2010年4月15日 (木)

マニュアルは最善ではない。

マニュアルでは「やる気」は教えられない。
マニュアルを作ってしまうと、マニュアルを超えられなくなる。
個性を育むマニュアルなど存在しない。

私はマニュアルが嫌いだ。この世にマニュアルほど悪しきものない。さらにはマニュアルに従うことほど簡単なことはないとも思っている。簡単な道を選んでいては、ひとは成長しない。なぜなら、自分の行動を考えなくなるからだ。だって、考えなくても答えはマニュアルに書いてある。
ただ、その答えはみな同じだ。ひとにはそれぞれ違う能力が備わっている。知識が多いひと、頭の回転が早いひと、体力があるひと、歌が上手いひと、誠実なひと、優しいひと、体の大きいひと、背の高いひと、みんな違うのに同じ答えでは矛盾する。みながたどり着ける同じ答えを用意するなら、ハードルを下げ、最大公約数を探すしかない。それはみなにとって能力以下に他ならない。それでは、せっかくの得意技も使う機会がなく錆つくだけだ。マニュアルは落ちこぼれを拾い上げることもできるが、飛び上がれるひとの足を引っ張る。

マニュアルどおり完璧にできるようになったからといって、それはちっともえらいことじゃない。なぜなら、マニュアルにはすべてのひとが努力すれば必ずできる程度の平均的なことしか書かれていないのだから。

あなたにとって本当に大事なことは、決してマニュアルには書かれていない。
だってマニュアルは、あかの他人がみんなのために書いたもので、あなただけのために書かれたものじゃないから・・・。

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2010年4月14日 (水)

春を待っていたのは桜だけじゃない。

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桜の花はもちろん奇麗だけれど、新芽は若い力にあふれている。これから来る春に夏に向けて、木々は着々と準備をしています。木は歳を取っていても、毎年春には若葉を伸ばします。我々もそうありたいと思う季節です。古い木は古い葉をつけるんじゃない。春になれば、古い木も必ず新しい芽を出すんです。

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2010年4月13日 (火)

誰もが口ずさめる歌が消えた。

私は1961年生まれで丑年の牡牛座、O型で三碧木星の男性だ。さすがに東京オリンピックは、ほとんど記憶には無いが、大阪万博の頃は小学生だった。初めて乗ったモノレールに感激し、太陽の塔を首が痛くなるまで見上げ、月の石には狂喜乱舞した。家にテレビがやって来たのも覚えているし、カラー放送が始まった時には、ちょうど今のアナログ表記のように画面右上にカラーと表示されていたのも知っている。
家族揃って紅白も観たし、ゆく年来る年が始まると、互いに向き合い新年の挨拶もした。マヨネーズというものを知った時には、この世にこんな美味いものがあるのかと感激したし、生クリームのケーキを食べた時には、それまでのバタークリームが前世紀の遺物のようにも思えた。今思えば、何もかもが新しく、毎日が驚きの連続だったような気がする。
カラオケで、そのころの歌が流れれば懐かしく、ほとんどのヒット曲が歌える。美空ひばりや三波春夫、桜田淳子や西城秀樹、ジュリーに天地真理はもちろんのこと、たとえそれが子供には縁の無い演歌だろうが、ムード歌謡だろうが、グループサウンズだろうが、五木ひろしも、ちあきなおみも、青江三奈も、ピンキーとキラーズもクールファイブでも、橋幸夫も舟木一夫も裕次郎も都はるみもザ・ピーナッツもピンカラ兄弟も殿様キングスだって一曲や二曲は歌える自信がある。
もちろん今のようにカラオケがあった訳じゃなく、そもそも小学生がそんなところに行く時代でも無いし、かといって、うちが、家でみんなそろって歌うような歌謡家族であったはずもない。では、なぜ歌えちゃうんだろうか?すべてが国民的に流行った歌という訳でもないと思う。たしかに「世界の国からこんにちは」や、「黒猫のタンゴ」「りんごの歌」に「高校三年生」「上を向いて歩こう」のように時代を超えて歌い継がれるようなヒット曲もあったが、子供から大人までみんなの記憶に残るような代表曲ばかりではなかった筈だ。
その答えはテレビの存在だろう。今だってテレビはある。それどころか一人に一台は当たり前という爆発的な普及をみせている。そう、まさに答えはそこにある。私の少年時代、家族団欒の中心にはテレビがあった。高価なテレビは家族が集まる居間に大切に置かれ、親も子も拳を振り上げジャイアント馬場を応援し、9回裏ツーアウト満塁の巨人阪神戦では手に汗を握った。浅間山荘事件では、食事も忘れて見入っていたし、アポロ11号が月面に着陸したときは家族みんなで未来を夢見た。吉本新喜劇(出身が関西なので)で腹を抱えて笑い、あげくにはテレビにツッコミを入れたり、歌謡番組では父親が鼻歌を口ずさんでいた。そう、今と違ってテレビは、たった一台しかなかったのだ。しかも当時家で最大の権力者は父親だったし、母の存在も子供にとっては相当なものだった。当然、チャンネル権は父親にあった。今のように子供が神様、お客様のような扱いをされる時代ではなかったので、好きなアニメを見せてもらうためには、良い子でいて、母に根回しをし、間違いなく宿題は終わらせてから、父に懇願するしかなかった。それ以外は必然的に、父や母が選んだ番組を一緒に観ることになる。とはいえ、番組が始まってしまえば、テレビが最大の娯楽だった時代である、食い入るように見入ったのは言うまでもない。そう、ここで私の記憶の中に昭和歌謡が刷り込まれたのだ。自分で選んで聴いた訳ではないし、興味があった歌ではなかったかもしれないが、その記憶が今も鮮明に残っているという仕掛けだ。だから、カラオケで誰かが歌おうものなら、その記憶の扉が解き放たれ、フルコーラス歌えてしまうのだ。

テレビが一人一台になった現代、チャンネル争いをすることもなく自分の部屋で見たい番組が見放題という贅沢で幸せな時代になった。その代わり、居間で家族が集まり、わいわいがやがや楽しい家族団らんも無くなってしまった。子供は親を煙たがり、親は子供の考えていることがわからなくなった。便利で自由な暮らしによって、大切な繋がりが希薄になってしまった気がする。

そうして、家族みんなが歌える歌も消えてしまった。

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2010年4月12日 (月)

やめて!開けないで!

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開けて欲しくない気持ちがひしひしと伝わってきます。このデザインを施した人は素晴らしいですね。

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2010年4月11日 (日)

おっと、危ない!

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「おっと、だれだい、こんなところに置いてったやつぁ。危ねぇじゃねえか!」
「ここに、俺様がいなけりゃ、どうなってたかわかんねぇぞ!」
「早いとこ、どけてくんな!」

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2010年4月10日 (土)

繋がったパイロン。

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いや、別に、なんてことない普通のものなんだと思いますが、ちょっと面白かったもので。

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2010年4月 9日 (金)

作成と制作。

今まさに、お客さん宛のメールを書いていて、ふと思った。

○○○○○のデザインを作成しましたのでPDFを・・・・・。

「作成?」「制作?」どっちが正しい?
そもそも「作成」と「制作」はどう違うの?

ということで調べてみた。goo辞書によると、

「作成」
主に書類や計画などを作り出すこと。「計画書を—する」「書類の—を依頼する」

「制作」
芸術作品などをつくること。「彫刻を—する」「卒業—」

ちなみに「製作」は、
(1)物品・作品・道具などを作ること。
(2)(「制作」とも書く)映画・演劇・番組などを作ること。プロデュース。
「—者」
「娯楽番組を—する」

ということで、今回の場合、紙もののデザイン、しかもPDFなので、書類の一種と考えれば「作成」、デザインが芸術性あるものと捉えれば「制作」。あるいは、デザイン自体は「制作」で、PDFは「作成」かもしれない。まぁ、どちらにしろ相手には間違いなく意味は伝わるだろうし、ほとんどの人は違和感も感じないかもしれない。

さらにちなみに「作製」は、ものを作り出すこと。製作。

「鑿井」(さくせい/文字化けするかな?)は、地下水や石油などを採取するために井戸を掘ること。
「削正」(さくせい)は、(1)他人の詩文の語句を添削すること。斧正(ふせい)。(2)物を削って正しい形に整えること。
「昨夕」(さくせき)は、きのうの夜。ゆうべ。さくゆう。

「さくせす」(success)は、完成!(ばんざ〜い!ばんざーい〜!)

お後がよろしいようで・・・。

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2010年4月 8日 (木)

目黒川の桜。

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目黒川(中目黒付近)の桜は満開です。ここの桜は昔から好きなんですが、久しぶりに行ってみて、あまりの人の多さにびっくりしました。思えば、20年ほど前、東京に出てきて間もない頃、働いていた会社が中目黒にありました。毎日、この川を渡って出勤していました。大雨が降ると大増水して濁流が見られます。ある台風の時は小さなトラクターが流れていたのを覚えています。そころはというと桜の季節でも人通りが少なく、のんびりと桜を眺めながら散歩できたものです。いったいいつからこんな人出になってしまったんでしょうか?ここは、桜の下に座るところもないので、宴会はできないこともあって、酔っぱらいに邪魔されずのんびり歩くことができたんですが、今はラッシュアワーのような人混みです。そのぶん、屋台もいっぱい出ていて楽しい部分もあります。
ただ、どんなに人が多くても、橋の上から見る景色には関係ありません。満開の桜を満喫できるおすすめスポットです。

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だれだ!川にゴミを捨てたやつは!

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2010年4月 7日 (水)

一桁に昇格!

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思えば、EOS10D→20D→30D→40D→50Dともれなく買い替えてきて、途中5Dにくらくらした時もあったけれど、あまりに私の用途と合っていなくて断念し、未だに未練たらたらだったけれど、ついに一桁に昇格する時が来ました。これからの私の愛機Canon EOS7Dです。一桁と言っても5Dとは別物だとも思うけれど、かえってこの方が私の用途にはぴったりくるので大満足。昨日のエントリーを実践する時が早くもやってきた感じです。ちなみに普段持ち歩いているのは、RICOHのGX200ですが、これまた大のお気に入り。5Dを持つ人ならば、GRなんだろうけれど、これまた微妙に私の使い勝手と合致しないので、GX200が相当だと愛用しております。このブログで使用している写真は、基本的にこの3台のどちらかで撮ったものです。
さあ、これを持って町に出かけよう!

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2010年4月 6日 (火)

デジタルの進化はアナログに還る。

デジタル一眼レフカメラ、略してデジ一(でじいちと読むでじいではない)は、今まさにブームを迎えている。巷では、老若男女を問わずデジ一を首に下げ、野に山に海に街に出て、シャッターを切っている姿を見かける。いや、見かけない日はないくらい、その人口は増えているように思う。かくいう私も数年前から、そのお仲間にしていただいている。このブログでお見せしている写真もそうして撮ったものが多い。
デジ一ファンがこんなにも増えた訳は、数年前からのデジカメブームの中、より高画質に、より高品質な写真をと求めた末に行き着いたという事もあると思うが、なによりもフィルムカメラより敷居が低い事があげられるだろう。かくいう私もフィルム一眼では中学生時代に一度挫折している。フィルムにはフィルムにしかない良さがあるだろうが、私のような素人にとって、現像するまでどう撮れているかわからない不安と、うまく撮れなかったときの失望感は大きな負担になる。フィルム愛好家の方々は、その一期一会の緊張感がより良い絵を生むと言われし、それはもっともな事だと思うが、私には荷が重すぎる。そういう意味で、とった写真をその場で確認できるデジ一が、私のような素人にも手の届くものになってくれた事は、とても嬉しい時代だと思う。
そんなデジ一に今、大きな変革が訪れた。昨年登場したハイビジョンで動画撮影のできるデジ一だ。ハイビジョンで撮影できるビデオカメラは、ずいぶん前から手の届くものになっている。それらと比べてデジ一の動画機能のなにがすごい事かと言うと、レンズが交換できる事だ。望遠でも広角でも魚眼でもレンズ次第でその性格が全く別物と言っていいくらいに変わる。こんな画期的な事が今、現実になってしまった。これは、フィルム一眼でもビデオカメラでもできない事だ。デジタルだからこそ可能になったと言っても過言じゃないだろう。
その恩恵として面白い効果が現れている。例えば望遠レンズはより効果的に被写界深度を使える。簡単に説明すると、手前の被写体はくっきりしているのに、効果的に背景をぼかすことができる。アイドルのグラビア、ポートレイトなどで必ず使われる手法だ。動画撮影機能を備えたデジ一でも、もちろんこれが可能になる。そうやって撮影された映像は、デジタルビデオカメラよりフィルム動画カメラに近い臨場感を再現してくれる。この効果は様々な分野で認められてきており、24の最新シーズン8でも採用されたらしい。
これは非常に興味深い。デジタルの進化がアナログの味を生み出せるようになったわけだ。いずれ、デジ一で動画を操る映像作家がでてくるのは間違い無いだろう。
もはや、デジ一に死角は無い。フィルム一眼にもビデオカメラにもできなかったことが実現され新たなジャンルを生み出したと言えるだろう。ただ、ひとつだけ難点がある。それは、デジ一の形状が映像を撮るのに適していないという事だ。いずれ動画デジ一は、ビデオカメラのような持ちやすい形態に、更なる進化を遂げるのかもしれない。そのカメラはいったいどんなジャンルで、なんて名前で呼ばれるのだろうか?

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2010年4月 5日 (月)

無事に満開!

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前に気になっていた「引き裂かれる木」も無事に満開になったようです。やっぱり自然の力ってすごい。

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2010年4月 4日 (日)

ここまでやればさすがに・・・。

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さすがにみなさん、ちゃんと右側通行しています。点字ブロックが真ん中ってのが良いのか悪いのか?微妙なところではありますが。

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2010年4月 3日 (土)

転ばない自転車は、子供を真っすぐに育てるのか?

アメリカでは、ジャイロ内蔵の自転車用車輪が発売されるらしい。原理は昔流行った地球ゴマと同じだ。車輪内部でジャイロが回転することによって、自立して倒れない。まずは子供用の小さいサイズが10,000円ぐらいで発売されるようだ。その車輪を買ってきて、充電し、自転車に取り付ければ、転ばない自転車の出来上がりだ。
もう、補助輪はいらない。転ぶこと無く、無駄な練習もいらない。その日から自分で自転車に乗れるようになる。もはや、うしろで支えてくれるお父さんもいらない。自転車に乗れるようになるということは子供にとってとても大きな事だと思う。転びながら乗り物に乗ってバランスを取る事を覚える。転んだ時の痛みを知り、上手に乗れない悔しさをバネにし、お父さんの頼もしさを知り、お母さんの愛を感じ、初めて乗れた時の喜びを感じる。何より体の動かし方を学ぶことは脳の発育に大きな影響を与えるという研究成果も発表されている。子供の頃、達成感を感じる事の中で、自転車は、間違いなく上位にくる思い出だ。そういう事が子供の成長には大事じゃないかと思う。たしかに転んで怪我をすればかわいそうだし、そんな事にならないよう、親が危険を排除したい気持ちもわからんでもないが、何事もやり過ぎは良くない。全ての危険を取り除き、安全なものだけを与える温室では強い種は育たない。わさびだって快適すぎる環境で育てると辛くならないらしいし、トマトは、ぎりぎりの水量で育てると最高に甘くなる。
転ばない車輪は、労せず自転車をまっすぐ進めてくれるかもしれないが、その子がまっすぐ育つとは必ずしも限らない。

「自立する自転車は、子供を自立させる事ができるのだろうか?」

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2010年4月 2日 (金)

お食事の準備。

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桜満開!虫たちも食事集めに奔走しています。大量大量。

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2010年4月 1日 (木)

違いを知る事。

「互いの違いを理解するという事は、相手の間違いを正す事ではなく、己の真実を知る事だ。」

約3年に及ぶ日韓歴史共同研究の報告書が公表された。フランスとドイツの例に習い互いの認識の違いを認め合うために行われている。3年もかけて結果は、互いの歴史教科書の批判というお粗末なものだ。歴史とは所詮言い伝えでしか無い。どこかで利害が絡めば、容易に書き換えられてしまうものでもあると思う。こういう事は世界中で行われている。宗教によるもの、政治的なもの、要因は様々だが、自分達の主張を声高く叫べば叫ぶほど解決は難しくなる。どんなに健全に検討しあったところで、相手の間違った歴史観を正そうとすれば、必ず衝突が起きる。互いに相手を正そうとする姿勢では、まず、折り合いをつける事はできない。結局のところ、各々が自分達の歴史を、主張を、冷静に研究し、あらゆる利害を排除した上で、自らの間違いを表明する事ができなければ、正しい結論は得られないと思う。そのためには、相手も同じ姿勢で望んでくれる事が重要だ。結局、どれだけ信頼し合えるかということに戻ってしまう。本来、研究という崇高な現場では、公正であり純粋であるべき研究者が集まって、どうして互いに折り合いのつける真実に行き着けないのだろう?本来、研究者の求めるものは、主義主張から離れた純粋な真実のはずだ。その考えが共有できれば、自ずと真実に近づくのではないかと思うのは、甘い考えなのだろうか?

難しい事だが、相手を理解するためには、まず、己を知る事から始めるしかないんだと思う。そして、それを正直に伝えること。

たとえ、それがバカ正直だと言われようが。

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