« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月28日 (日)

ロボトーテム。

R0020564

ブリキのロボットでできたようなトーテムポール(塔?)。六本木ヒルズ近くにある公園のモニュメント。ここの公園、遊技道具がとにかくカラフルで楽しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月27日 (土)

春一番に誘われて。

R0020639

25日に吹いた春一番に誘われてのそのそと出てきた模様です。まだまだ、動きはのろく、このままじゃ何かあっても逃げる事も出来ません。願わくば、車道になど出て行かないように。
私の勤める千代田区一番町は、東京のど真ん中でありながら野鳥や生物をたくさん見かける事が出来ます。それもこれも皇居という原生林があるおかげ。一月後には千鳥ケ淵でお花見と洒落込みましょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月26日 (金)

あと少しで届くのに。

R0020616

下から生えた木と上からかぶさった木、どちらも想いは同じ。少しでも太陽の恵みを得たい。利害が一致すればお互い歩み寄る事が出来るのかもしれません。いやいや、相手より多くを求めるから競争しているのかもしれませんね。(石神井公園:三宝池にて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月25日 (木)

ねじれる!

R0020602

いったいどうしたらこんなにもねじれてしまうことができるんだろう?真っすぐ伸びる事は出来なかったんだろうか?実はこれ、それなりに離れたところにある藤棚の幹でした。それにしても、どうしてまたこんなに離れたところに藤棚を作ったんでしょうか?いや、藤棚から離れたところに植えちゃったんでしょうか?(練馬区:石神井公園、三宝池付近)

R0020600

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月24日 (水)

恐るべき生命力。

R0020567

板塀が完全に侵食されています。ここまで育った植物も植物なら、ここまでほっといた家主も家主ですね。

R0020565

こんなふうになっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月23日 (火)

LED AQUOS

Led

少し前、AQUOS新型発表を、記者会見場にいる記者から上司役の本木君が受けるCMがあった。記者は興奮し、「デスク、スクープです。」「(本木君)はい、何?出た !?うん、うん…」その後、やり取りは続き、「(本木君)で、商品名は?」「あ、ちょっと待って、ごめんね、ごめんね。」とメモを取りながら、「レッド…アクオス…」「LED(エルイーディー)だろ、それ。」

そう、これで、LEDはレッドじゃなく、エルイーディーと読むということが全国的に認知されてしまった。何が言いたいかというと、上右のジャケット写真(そもそもLPもそろそろしらない世代がいるが...)我々世代にはカリスマハードロックバンドLED ZEPPELINのデビューアルバムで超有名なジャケットだ。

もう、私の言いたい事はおわかりいただいたかと思う。
今後、このLED ZEPPELIN(レッド ツェッペリン)は、エルイーディー ツェッペリンと呼ばれてしまうかもしれない.....。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月22日 (月)

天才の眼。

「私は絵が下手だから。」
「絵は苦手、上手にかける人がうらやましい。」

私が絵を書いているせいか、私の周りではそういう話題が出る事は多い。では、絵を書くということは、いったいどういうことなんだろうか?ラスコーの洞窟に書かれた壁画が物語るように、人間は、言葉の発明以前から絵を書いていた。つまり、絵を書くという行為は言語より簡単なことだったのではないか?そう言ってしまうと少々乱暴かもしれないが、満足に言葉を話せない子供も絵は書くので、当たらずしも遠からずだろう。その動機は、自分の記憶を助けるために書いたり、自身の欲求を満たすためだったり、己を探求するためだったりするわけだが、まず最初の目的は他の人に何かを伝えるということだろう。
人に伝えるためには、ある程度忠実に書かれている必要がある。犬を書いたのに牛に見えてしまっては伝えた事にならなくなってしまうし、誤解を生むだろう。では、犬と牛はどうちがうのか?犬とキリンならわかりやすいが牛になると少し高度だ。(牛の品種は白黒のホルスタインじゃないことにして。)
まず、大きさが違う。体格が違う。.....ここまではあまり間違う事は無いだろう。ただ、これを一枚の絵でちゃんと書き分けるのは少々難しい。並べて比較させれば良いかもしれないが、大きさを変えるだけでは親子に見えるだけかもしれない。
もう少し、よく見てみよう。鼻の形が違う。鼻の色が違う。目の付いている場所が違う。耳のつき方が違う。鼻、口と額の関係が違う。牛には角がある。この辺が見えてくると、犬と牛をかき分けられるだろう。これらの事は、二つをじっくり見比べればわかることだが、必ずしも牛と犬が一緒にいるとは限らない。目の前の牛だけを見て頭の中の犬と比較するためには、犬をよく見て記憶しておく必要がある。

そう、絵をかくということの本質は、対象物を「見る」ということに尽きる。鉛筆や筆などの道具を上手に使えるかどうかと勘違いされがちだが、それは熟練であり経験なので、多少の差はあるものの、あきらめずに訓練すれば誰もが必ず上手に使えるようになる。たとえどんなに道具が上手に使えてもうまい絵が書けるとは限らない。すべての絵が写実的とは限らないので、そんなに見る事が大事なのかといわれそうだが、ちゃんと見れているからこそデフォルメも出来るし、崩す事もできる。絵が苦手だという人ほど、ろくに見ないですぐ書き始めてしまう。見えてないのだからうまくかけないのはあたりまえだ。絵の基礎として、デッサンがあるが、これこそ書く事を学ぶのではなく見る事を学ぶための反復練習にほかならない。石膏像など白いものをデッサンするのは、色や模様に惑わされず形を捉えられるようにするためだ。最近のアーティストさんはよく知らないが、昔から芸術家と言われる大作家ほど、日々のこのデッサンを怠らない。素晴らしい作品を描けるようになってからもこの基礎訓練はかかさないのだから、絵がうまいのはあたりまえという事になる。

そこまですごい絵を書きたいともかけるとも思っていないが、少しは上手になりたいと思っているなら、書きたいものを前にして、まず、ペンは持たずに、しばらく眺めてみよう。それこそ穴の開くほど見つめてみよう。ただ見えているという状態ではなく、色々頭で考えながら見てみよう。目をつぶって、そこに今まで見ていたものを思い描いてみよう。わからないところがあるなら、目を開けてまた見てみよう。そうして、頭の中にしっかり再構築できるようになったら、初めてペンをとって書いてみよう。線は稚拙かもしれないが、今までよりずっと上手になっているはずだ。

「見えている事」と「見る事」は大きく違う。たとえば、カメラで言えば、「見えてる」状態はファインダーを覗いている状態、「見る」は、シャッターを切り、焼き付ける事に近いかもしれない。見る事が確実にできるなら、わざわざデッサンをする必要はないと思う。漢字の書き取りと同じように、ただ、見るだけでは覚えられないから何度も何度も書いて覚える。天才画家と言われる人は、この「見る目」が、それこそ天才的にすぐれているんだろうと思う。我々にはそこまでの「目」は備わっていないので、頑張ってデッサンをするしかない。

しかし、天才と言われる人ほどひたすらデッサンしたりするんだよなぁ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月21日 (日)

何だ、これは?

R0019993

丸の内で、突然、目の前に現れたとにかくでかいクラシックロールス(ロールス・ロイス・ファントムII)。何だろうとおもってしばらく見ていると、目の前のホテル(ペニンシュラ)から新郎新婦が。しかし、形はクラシックなのに、とにかくでかい!リムジンのように長いのではなく、全体がでかい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月20日 (土)

雨のいたずら。

R0020544

少し雨に濡れた瓦屋根が、映し出した風景。下ばっかり見て歩いてないで、上を向いて歩きましょう!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月19日 (金)

3Dモザイク?

3D映画アバターの記録的なヒットに加えて、先週、Panasonicから、3Dテレビの発表もあり、巷では3D映像がブームの兆しを見せている。今後、各社から3Dテレビの発表が相次ぐだろうし、今年の年末商戦の目玉になると期待されている。
過去、このような映像の新技術が流通していく過程で、その一翼を担っているモノにアダルト系コンテンツがあったことは誰もが認めるところだろう。ビデオデッキの一般化や、DVDの普及、いち早くそこにコンテンツを配給してハードの普及に一役買っていたのは間違いないと思う。ハード的な弱点もあったと思うが、LDがいまいち普及しなかったのも、いまいちブルーレイの普及速度が遅いように感じるのも、アダルト系コンテンツ配給会社の触手の動きが鈍いことに一因があるんじゃないだろうか?と思ってしまうのは言いすぎだろうか?
話を戻そう。この3D映像向けにアダルト系コンテンツが配給されるとどうなるのだろうか?このコンテンツにとって切っても切り離せないものにモザイク処理がある。通常の映像コンテンツでも使用されることはあるが、アダルト系では不可欠だ。さてこのモザイク処理、3Dではどういう風になるのか、とても興味がある。モザイク部分は、基本的には平面処理になっている。3D映像でも字幕のような平面部分は平面のまま、前に飛び出すだけだ(奥にあると読みづらいので、再全面に飛び出すよう設定されているらしい。)。それでも字幕はもともと映像と切り離されたものなので、それほど気にならないかもしれないが、モザイク処理は映像と完全にリンクされているので、平坦なものだと、とても違和感があるように思う(まだ見た事は無いので、あくまで想像だが)。ということは、3Dコンテンツでは、モザイクも従来とは違う3Dモザイクになるのかもしれない。それがどんなものか想像できないが、一度は見てみたい気がする。たとえばキューブ状の立体的なモザイクが飛び出してくる様は、とても興味深い。

もしかすると、来年は3Dモザイク元年になるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月18日 (木)

トランスフォーム。

R0020548

トランスフォームして動き出しそうな彫刻。前は、これを見てもそんなふうには感じなかったんだろうなぁ。映画の影響は大きいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月17日 (水)

ちょうどぉ?

よくテレビ番組の、CM明けなんかに、アナウンサーや司会者が「ちょうど9時半をちょっと回ったところです。」と言う。
どこが、ちょうどなんだとぁ?と私は悪態をつく。
「ちょうど」とは、余分や不足なくぴったりと一致しているさまをいう。ちょうど9時なら納得、9時半は、半がいまいち曖昧なので、ちょうどな感じがしにくい。9時半ちょっとは、もはや絶対ちょうどじゃない。しかも過ぎたところとはあまりに大雑把だ。言葉のプロであるはずのアナウンサーがこれでは情けない。だいたい、9時半ちょっと過ぎは、わざわざ「ちょうど」という必要もない。「現在、9時半をちょっと回ったところです。」が正解かもしれない。ちょうどを使うなら「只今、ちょうど9時32分35秒です。」がいいのか?いや、意味的にはあってるかもしれないが、やっぱり丁度はきりのいい数字がしっくりとくる。「ちょうど9時になりました。」かなりいい感じになってきた。でも、9時という数字もいまいちぴったりじゃない気がしてくる。「ちょうど10時になりました。」さらにいい。「ちょうど正午です。」これはいい!でも、これじゃぁ、一日に一回しか使えないじゃない!なんかボヤキ漫才のようになってきたなぁ。

ちょうど時間となりました。
それでは皆さん。ご〜きぃ〜げ〜ん〜よう〜。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月16日 (火)

やらせじゃないですよ!

R0020543

東京メトロ南北線麻布十番駅にて。
ホームに忘れられた傘、一本前かそのずっと前かに誰かに置き忘れられた赤い傘。あまりにも周りの色に調和して、なんともいえない一体感を醸し出しています。持ち主は、本当に置き忘れたのか、その完璧な調和を目の当たりにして持っていく事をためらい、あえて置いていったのかもしれません。(そんなことはないか.....。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月15日 (月)

アイドル歌手はどこいった?

私の青春時代はアイドル歌手全盛期だったのではないかと思う。山口百恵、桜田淳子、松田聖子、中森明菜、ピンクレディ、キャンディーズ、数え上げればキリが無い。間違いなく彼女たちはそれぞれ、ひとつの時代を築いていたし、誰もが、たとえファンでなくともその歌を口ずさむ事ができた。
ここ数年、そんなアイドル歌手の姿を見なくなったような気がする。確かにアイドルは依然として存在はしている。しかし、その形態は変化してしまった。モーニング娘。や、最近ではAKB48など大人数のアイドルグループが全盛で、単体のアイドル歌手がいなくなってしまったような気がする。私が歳を取ってしまったから知らないだけだろうか?いや、決してそうじゃ無いと思う。相変わらず、テレビでは、若いアイドルが賑わしてはいるが、彼女たちはタレントや、グラビアアイドルで歌手なじゃない。記憶に残る最後の単体アイドル歌手は、松浦亜弥かもしれない。もちろん、女性歌手は大勢いるしヒット曲も毎年たくさん出てはいるが、それらは、浜崎あゆみ、倖田來未、宇多田ヒカル、中島美嘉、絢香、aiko、大塚愛、YUI、MISIAといったアーティストと呼ばれる人たちで、アイドルではない。男性アイドルは現存するが、そのほとんどがジャニーズだ。
2009年度レコード大賞の受賞者を見たとき、今年ってこんなにヒット曲が少なかったっけ?と思ってしまったのを覚えている。これは多分に年のせいもあるが、CDやダウンロードの売上は多かったかもしれないが、世代を超えて指示された楽曲は昔よりはるかに少ない。しかし、ここにも女性アイドルの姿はない。2009年度のオリコンチャートにいたっては、ベスト10中7曲がジャニーズだ。さらにその7曲の内4曲は嵐。女性は、愛のままで...の秋元順子ただ一人。20位まで見ても女性歌手の姿は無い。22位にようやくAKB48がランクインする。いったいどうなってしまったんだろう?もはや女性アイドル歌手は絶滅してしまったんじゃないだろうか?と思ってしまう。どちらにしても、ちょっとくらい歌が下手でも可愛ければ人気も出て、曲も売れる時代は終ってしまったのかもしれない。iPodの普及や携帯の着メロで日常的に音楽を聴く人はあきらかに増えている。その音楽との関わり方の変化も影響しているのだろう。楽曲優先になったとすれば、日本人の音楽に対する意識が高くなったと言えなくもないが、少し寂しい気はする。

そういえば、親衛隊って今も生き残っているのかなぁ?

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2010年2月14日 (日)

縦にして見ると?

R0020536

ホームに立ってぼーっと見てたら、なんとなくこれを縦にして見たくなりました。なんか違う景色が見えるような気がして.....。東京メトロ半蔵門駅ホームにて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月13日 (土)

【crane file : 030】成長する街。

R0020451

私の会社のある一番町界隈では、次々と新築ビルが育っている。その割にはテナント募集の看板が目立つし、工事途中なのかどうかもわからない空き新築ビルもある。そんなに建てまくって大丈夫なのか日本!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月12日 (金)

絵にすりゃ良いってもんじゃない!!

R0020541

R0020540

久しぶりに行った近所のタリーズカフェの分別ゴミ表記が変わっていた。以前は、「紙類:燃えるゴミ」「プラスチック類:燃えないゴミ」のような表記だったと記憶している。ホットの場合は、プラスチックのキャップを外して分別したりしていた。たまに迷う事もあったが、要は紙類を認識してそれ以外は燃えない方に入れていれば良かったのであまり不自由には感じでいなかった。昨年より東京都の分別の仕組みが変わったためか、より効率を上げるためか表記がピクトグラムに変更された。
これを最初に見た時、一見してどっちにどれを入れればいいのか迷ってしまった。絵にする事で誰にでもわかりやすくしようとしたのだろうが、かえってどれを指すのか直感的にわからない。そもそも絵にする理由は直感的にわかることを目的としているはずなのでどうにも納得がいかない。世の中にはこういう事が多々ある。webの仕事などをしているとクライアントから、ボタンはアイコンを入れてくださいとかよく言われるが、ものによっては逆効果な時がある。一般的に認識されているピクトグラムならまだしも、そもそもアイコンにならないものだって世の中にはたくさんある。それを無理やりアイコン化しても結局アイコンだけではわかりにくいからテキストで補完する。アイコンもテキストも小さくなってかえってわからないこともしばしばだ。ピクトグラムやアイコンの効用を否定するものではない。現にトイレのマークや買い物かごアイコン、非常口などは、記憶に深くインプットされていて、雰囲気を見るだけでも直感的に理解できるので、その効果は歴然としている。
何が問題かというと、絵にしてしまう事で限定されてしまい、絵に無いものはどうしていいか判断できなくなってしまう場合があるということだ。上記のタリーズの場合、タリーズにはこの絵に表現された以外のものもあるので、これで限定されてしまうと、それ以外のものは一瞬、どうしていいかわからなくなってしまう。言葉の方が、応用が利き判断しやすい場合もあるのだ。
ピクトグラムやアイコンを全否定しているわけではない。これらはとても便利なものだし、現代では必要不可欠な表現だと思う。しかし、至上主義のように盲目的に依存する事には危険性がある。何事も適度な判断が必要だという事だろう。「策士、策に溺れる。」の理りのように。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年2月11日 (木)

物流は何をしてきたか?(漁師さんの笑顔。)

我々が今、こんなに豊かな生活をおくれるのは、物流の発展によるところが大きい。北海道で獲れた蟹を自宅で食べられるのも、宮崎のマンゴーが食べられるのも、すし屋のネタが豊富なのも、スーパーでありとあらゆる食材がそろうのも、すべて物流のおかげと言っても過言じゃない。世界中を見渡しても、今日発送した宅急便が翌日の10時に時間指定で届くような物流システムを持った国は他にない。なりものいりでオープンしたIKEAに行った時、買ったものを配達してもらえないことに驚いて、「なんて不便なんだ!今時あり得ない。」と、思ってしまったのは記憶に新しい。それほど物流は生活の中に浸透している。
だが、この物流のある一面が生産者の顔と、消費者の喜びの間に大きな壁を作ってしまったことも事実だ。昨年は原油高騰で船を出せない漁業の現場が問題になった。船の燃料、つまりコストが高くなっても、獲れた魚の値段は変わらない。船を出しても赤字になるのでやむなく漁に出るのをやめてしまう。市場に流通する絶対量が減って、需要が供給を上回っても、あまり売値は変わらない。多少の値上がりはあっても、漁師さん達まで恩恵は届かない。経済の原則を歪めたようなこの状況、これもまた、複雑に構築された物流システムが生み出した負の部分だ。

そもそも、この物流システムは、大量消費に対応するため成長してきた。大都会での治産地消は夢のまた夢、東京の食糧自給率はわずか1%しかない。そんな東京に食糧を運ぶためには大規模な物流システムが不可欠、生産者が担いでくる分でまかなうのは100%不可能だ。さらに大量消費の市場には大きなビジネスチャンスがゴロゴロしている。物流大手がこの市場を見逃す訳はない。いや、この市場が大手物流企業を育ててきたのだ。そうして、生産者は誰が食べるのかわからないで食物を育て、漁をし、消費者はどこの誰が育てたのかわからないものを食べる。これでは感謝の気持ちも、作る喜びも薄れていってしまう。そんな歪んだ状況が、食品偽装を生み出してしまった。

ここ数年は産直ブームで、今一度、物流を見直し、顔の見える物流を目指そうという動きが出てきた。相変わらず、鼻のきく物流大手がこのブランドを見過ごすはずもないので、すべてを鵜呑みにすることはできないが、それでも、インターネットの普及も手伝い、まっとうな流れも生まれてきている。

ある、産直サイトで最近始まったサービスは、リアルタイムで、漁が観られるというものだ。当然、早起きは必須だが、これがなかなか画期的。今まさに釣り上がった魚は、その場で値付けされ、即時にネットに上げられ、漁の一部始終を観ていたネットの向こうのユーザーが、購入する。その魚は、当日か、遅くとも翌日には消費者の手元に直接届けられる。中間が無いので、消費者は安く買えるし、生産者の手元に入る収入も増える。何より、入札があった事を知らされた漁師さんはとっても良い笑顔だった。そんな漁師さんの言葉が印象的だった。「わしらは食べるひとに喜んでもらいたくて、寒くても鼻水垂らしながら頑張っとるんや。そうやなきゃ、やってられんで、ほんま。」こういう大事な事を我々は忘れかけているんじゃないだろうか?

とはいえ、こういう事が実現できるのまた、高度に発達した物流システムの恩恵なのは言うまでも無い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月10日 (水)

水盤の反射。

Img_2522

光が見せてくれた一瞬のイリュージョン。動画でお見せしたかった風景です。庭に置かれた水盤に反射した光が壁に文様を浮かび上がらせます。おそらく、夜には、この水盤に名月を映して風情を感じたりしていたんでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 9日 (火)

取り付く島が無い!

「いやぁ、先週は、取り付く島も無いような状態だったので、息付く暇も無かったですよ。」
(使い方、あってんのかなぁ?)

昨日のエントリーで、「息付く暇が無い。」という言葉を打つ時、「あれ?暇だっけ?島だっけ?」と思って悩んでしまったので、調べてみました。「取り付く島が無い」の「島」と「息付く暇が無い」の「暇」を混同していました。「息付く暇が無い」は、気を抜く事が出来ない。休めない状態。「取り付く島が無い」は、相手がつっけんどんで、話を進めるきっかけが見つからない。とか、頼りにしてすがるところが無い八方塞がりな状態を表します。前者は、「けんもほろろで取り付く島が無い。」とかっていう最近では死語になりつつあるような、年輩しか使わない言葉ですね。
そもそも、「取り付く島が無い」は、船で沖に出て、嵐などにあった時、どこかの島に船をつけたいが、その島が見つからないというところから生れた言葉だそうです。この言葉、ある調査では、シマをヒマと間違って覚えている人が、42%もいるそうです。一説には、江戸と関西の「シ」「ヒ」の使い方の違いで混同されたのでは?という意見もあります。

このように、なんとなく間違えて覚えている言葉は、ほかにもたくさんあります。有名なのは「確信犯」これは、「罪と知りながら、行われる行為」ではなく、「自らの行為を正しいと信じて行われる犯罪」、革命ですね。「気が置けない」は、「油断できない」ではなく、「気遣いする必要がない」事。「辛党」は、「辛いものが好きな人」ではなく、「甘いものより酒類が好きな人」の事。
「触り(さわり)」は、「話の最初の部分」では無く、「話の中で一番の聞かせどころ」
「潮時」は、「引き際」ではなく、「ちょうどよい時間」
「敷居が高い」は、「ハードルが高い」のではなく、「不義理があって、その人の家に行きにくい」
「他力本願」は、「他人の力を頼る事」ではなく、「阿弥陀仏の本願に頼って成仏する事」
「煮詰まる」は、「行き詰まる」のではなく、「充分に議論し、結論が出る状態」
「爆笑」は、「ひとりで大笑いする」のではなく、「大勢の人が一度に笑う」事
「役不足」は「役に対して能力が足らない」のではなく、「能力に対して役目が軽過ぎる」事
等々、いっぱいあります。

いくつかは、私も知らず知らず、間違って使っていました。調べてみると、自分の文章が間違っていなかったか不安になってきます。漢字の間違いなら「誤変換」です。って言い逃れも出来るんですけど.....。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 8日 (月)

息衝く暇がない!

漢字が多いと日本語は読みにくい?
たまたま、Yahoo newsで公務員法改正のニュースをニュースを開いた時、一瞬、「うわっ!読みにくいと思ってしまった。」下は、その文章の抜粋。常日ごろから、一日の内、数回、ニュースの類いはチェックするので、画面で活字を読むのにも少しは慣れていたと思ったが、これはちょっと新鮮だった。
なんのことはない、漢字が多く、平仮名が少ない。カタカナにいたってはほとんど使われていないだけだが、妙に違和感を感じてしまった。このブログ上の表記でその感覚を味わっていただけるのかどうかは個々の環境にも依存する事なので何とも言えないが、日常、我々が、どれだけ、平仮名やカタカナに依存しているかを思い知らされた。本を読む場合、そんな感覚はあまり感じないような気がする。たとえば、時代小説なんかを読む場合は、基本的にカタカナは出てこないし漢字も多い。いや、最近は時代小説も読まなくなったから、単に漢字になれていなくなってしまったんだろうか?

通常は、下段のような、仮名と漢字が適度に配分された文章になると思う。特に、ネットで読むニュースなんかは、ITやPCなんかのニュースが多いので、必然的にカタカナが多くなる。こうして見比べてみると、上段は、なんとなく中国語のようにも見えてしまうから不思議だ。密度が濃く、空きが無いので息苦しく感じてしまう。さらっと読む事が出来ない。常日ごろから、本を読み、活字に親しんでいる人ならそんなことは無いのだろうが、私自身、この事に少し驚いた。逆に仮名が多いと、なんとなくメリハリがあって元気で楽しいような気がしてしまう。実際、上は、政府発表のお堅いニュースだし、下はスポーツニュースなので、各々の性格が字面で表現されているのかもしれない。

やっぱり、もっと本は読まなきゃいけないなぁ。
老眼(遠視)になってから、眼鏡をかけるのが面倒で、めっきり本を読まなくなったせいかなぁ?


【サンプル】(内容は特に関係ありません。)

(漢字が多く、平仮名が少ない。カタカナはほとんどない。すき間がなく息衝く暇がない。)
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
政府が今国会で提出する国家公務員法等改正案の素案が3日分かった。「内閣の重要政策を実現するため」に首相が各閣僚に部長級以上の幹部の異動を要求できる規定を設けるなど、首相官邸の意向を幹部人事に直接反映できる仕組みを明文化する。また、事務次官を局長級と同格とみなし、降格を容易にする。いずれも政治主導・官邸主導で政策立案を推進するため、官僚の人事異動を柔軟に行えるようにする措置で、衆院選マニフェスト(政権公約)で掲げた「新たな幹部人事制度」の輪郭が示された。素案では「首相または官房長官は、内閣の重要政策を実現するために適切な人材を登用する必要があると判断する時は、任命権者(閣僚など)に幹部職員の任免の協議を求めることができる」と明記。また、任命権者側には幹部の任免の際、「あらかじめ首相及び官房長官に協議する」ことを求めている。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

(通常?のイメージ。こちらの方が何となく読みやすく感じる。)
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「日本で行われる親善試合に分析スタッフを派遣する予定はない。本大会直前に欧州で開催される試合には監督か、監督の知り合いが視察に行くかもしれないが、それまでは見送りでOKだろう」。前カメルーン代表監督でエスパニョールと同代表のGKコーチを兼務するトーマス・ヌコノ氏(53)が語った。日本の東アジア選手権や3月のバーレーン戦は映像での分析のみで十分という見解を示した。アフリカネーションズ杯準々決勝・エジプト戦で1—3で敗れた不屈のライオンだが、2日のベネズエラ戦で凡戦ドローに終わった日本に対しては、あまりに無警戒だ。 また、カメルーンは3月3日にモナコのモンテカルロでイタリアと親善試合を行うことが2日、イタリア協会から発表された。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 7日 (日)

嫌疑不十分と疑わしきは罰せず。

嫌疑不十分で不起訴となった小沢幹事長、マスコミや野党は、嫌疑が不十分で起訴できなかっただけで、疑いが晴れた訳じゃないと、まるで、限りなく黒に近いグレーとの評価だ。というか、あきらかに黒だが、尻尾を出さなかった。という決めつけになっている。野党に関して言えば、所詮、選挙に向けてのパフォーマンスで真実なんかどうでもよく、責める口実なだけで、民主党の政権運営をスムーズに運ばせない(率直にいうと妨害)ための人質みたいなもんだからしょうがないけれど、報道はもうちょっとましな見方をして欲しいとも思う。まぁ、過去の経歴をみると、精錬潔白とは言い難いが、それでも検察の頂点(?)のような特捜部が罪に問えるだけの証拠が無いと判断したのだから、現時点で法律的には無罪である事に違いは無い。確かに政治家という公職にあり、社会的に影響力のある人物には、一般の人より責任が重いと判断される。じゃぁ、一般人は多少の事は許されると言う事だろうか?それは間違っている。それじゃあ、あまりにも不公平だ。公人の影響力を考慮した責任を声高に問うのであれば、桁違いに影響力を持つマスコミの責任も今一度考えるべきでは無いだろうか?
「疑わしきは罰せず。」という原則がある。刑事裁判で裁判長が行う判断である。検察には挙証責任があり、それが不十分だった場合、つまりその罪を立証できなかった場合には、被告に有利な判断をするというものだ。これを被告側からみた場合、「推定無罪」という事になる。この原則が崩れてしまえば、「冤罪」が多くなる様な気もする。それ以前にマスコミによる「冤罪」じみたことは多い。あきらかに決めつけ報道による社会的制裁が目に余る。それが「マスコミによる「冤罪」と発覚した場合でも彼等は反省すらしない。中には、実際の刑罰以上の制裁が加えられる事もしばしばだ。法律の専門家でも無い彼等がかざす「正義」というものが、実際の罪の重さ以上の制裁を加えてしまう事を自覚すべきでは無いだろうか?
数日前のある報道番組で、この事件を報道する際、導入のところで、街灯に吹き付ける雪の映像が挟み込まれていた。冷たい風、雪、厳しい寒さの映像で、小沢さんの置かれた立場の厳しさを表そうとでも思ったのだろうか?公平な報道を目指すべき立場で、そんな心象に訴える映像を挟み込み、世論を誘導する必要があるのだろうか?映画やドラマじゃあるまいし。日本の報道は、もはや、バラエティー番組なんだなぁと思う。
こんなマスコミ批判みたいな事を書いてると、いつか、その攻撃の矛先がこちらに向くかしら?いえいえ、そんなことは万が一にもありません。だって、私じゃ視聴率取れませんから.....。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 6日 (土)

アメリカ村では。

R0020365

ミナミにほど近いアメリカ村では、こんな街灯が立っています。手に持った丸いのには、お店の広告が入っていたりします。持ち方なんかもひとつひとつ違ってとても凝ってます。

R0020370

もうひとつ、こちらはお店です。左右の壁に仁王像が描かれています。で、このDIESELってお店がなんの店だったかは見てきませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 5日 (金)

朝青龍引退!

昨日、朝青龍が引退を表明した。直接の原因は場所中の傷害事件で、擁護するべくも無いが、それまでの度重なる横綱としての品格を問われたものだと思う。最近に無い「強い横綱」で、破天荒なところや、笑い顔がやけに子供っぽくて可愛かったところ、話題に事欠かなかったところも決して嫌いじゃなかったので、なんとなく惜しい気がする。昨今は、「まじめ」や「おとなしい」「品行方正」な人物が高評価される風潮があり、「破天荒」でアバンギャルドな人物は、疎まれるような気がする。皆がそうだと困ってしまうが、そういう人物は、歴史の要所で時代を変革し、築いてきたような気もするので、一概に排斥してしまっていいようには思えない。

よく、朝青龍は「スポーツマン」であっても「関取」ではない。という表現をされるが、それは、民族意識に根ざすのだと思う。日本人なら小さい時から、好き嫌いは別にして相撲に触れる機会は少なからずあるし、相撲に限らず、「武道」というものには、ただ強いだけじゃなく、品格が必要だという事をなんとなく肌で感じていると思う。残念ながら朝青龍にはそれが備わっていなかったが、彼は、そのそも外国人であるし、「相撲」をスポーツの一種と捉えてしまってもしょうがない事のように思える。本来、それを矯正するのは、外国から彼を引っ張ってきた親方の責任だ。まず、攻められてしかるべきは親方であって、引退するなら、先に親方がするべきじゃないのか?とも思う。今まで、さまざまな報道の中で、高砂親方のなんとだらしなく、情けない姿が多かった事か。こんな親方の元で、ちゃんとした品格が備わるはずもないとも思っていた。日本に来てまもない頃から、親方がもっとちゃんと躾けていられたら、こんなことになならなかったような気がする。逆に彼のパフォーマンスの面白さも薄れていたかもしれないし、横綱まで登り詰める事ができなかったかもしれない。いや、もっと最強の横綱になっていたかもしれないが、それは、「もしも」の話で、今となっては望むべくも無い。

前人未到の69連勝を成し遂げた第35代横綱、双葉山が、70戦目にしてついに破れた時、師と仰ぐ安岡正篤に「我、未だ木鶏たりえず。」という言葉を打電したといわれる。これは荘子の訓話からきている言葉で、王のために闘鶏を育てていた紀子の話。

紀子が王の軍鶏を訓練し出して10日後、王が紀子に「もう、戦えるか?」と尋ねた。
紀子は、「まだまだです。むやみにやる気を見せているだけです。」
さらに10日後、王が尋ねると、
「いや、まだまだです。他の軍鶏の声や姿にいきり立つ状態ですから。」
さらに10日後、
「まだ、相手を睨み付け、闘志をむき出しにしますから。」
そして10日後、王が尋ねると、
「やっとものになってきました。他の軍鶏が声を上げても一向に動じません。まるで木彫りの軍鶏のようで、徳が付いた状態になりました。もはや、どんな軍鶏もかなうものではなく、後ろを向いて逃げ出す事でしょう。」

本当に強い者は、その強さを自らむやみに発散する事は無い。まるで木彫りの鶏のように、ただ静かに凛として立っているものだという事。対峙した者は、その奥に秘められた強さを肌で感じ、戦わずして負けを認めてしまう。まぁ、弱い犬ほどよく吠えるという言葉に近いかな。
69連勝もし、寡黙でしられた横綱が、自分はまだ、木鶏の境地には達していなかったと師に伝えたということになる。そんな彼も立派だが、彼をそこまでにした師もまた素晴らしい人物だったんだと思う。また、周りもそうだったに違いない。日本人が皆、誇りと自身をもち、礼をわきまえ、自らを律する事が出来た時代だったのかもしれない。
今の世間の重箱の隅をつつく様な騒ぎを見ていると先行き不安だなぁ.....。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 4日 (木)

iPadは、iPod touchをただ大きくしただけ。

iPadが発表されて以来、毎日、iPad関連のニュースがどこかで必ずアップされている。アメリカまで行って実際に手にした人はそんなに多くないと思うし、記事からもそれらはうかがえない。みんなが、AppleのビデオやKeynoteを見て、あるいは他の記事を読んで書かれているのだと思う。かくいう私もそのひとりだが.....。
そんな中で、称賛の声とは別に否定的な声も多く聞かれる。否定的な意見のほとんどは、iPadが「できないこと」を列挙することでなりたっているようにみえる。中でも「iPadは、iPod touchをただ大きくしただけ。」という意見は、ある大手ゲーム機メーカーからも聞こえてくるほど多い。そして、そのほとんどが期待外れという否定的な意見だ。

はたしてそうだろうか?

私は、iPhoneを使用している。会社ではそれこそMacを使い倒しているが、自宅にMacは置いていない。もちろんWindows機は触った事も無いのであるはずもない。そんな私が、自宅で最も頼りにしているのはiPhoneだ。休日や夜間に最低限のメールをチェックするのも簡単な調べものをするのもこれ一台でまかなっている。今の私が、iPhoneに望む事は、何をおいてもその画面を大きくして欲しいということに尽きる。そうすれば、もっといろんな事が出来る。ブログだってかけるし、調べものももっと楽にできる。それなら、自宅にもMacを置けばいいじゃないかと言われるかもしれないが、Macに限らずPCは立ち上げるのに時間がかかる。何よりも立ち上げてしまうと何となくいろいろやらなければならないような気になってしまう。それこそ仕事もやってしまうかもしれない。そもそも自宅で仕事がしたくないからMacを置いていないのでそんなことになってしまっては、とっても困る。
iPhoneの良いところは、その手軽さだ。メールを見るのも、webを見るのも、ゲームをするのもすぐ出来るし、すぐやめられる。その辺にうっちゃっておいて、気が向いた時だけちょこっとさわれる気軽さがいいのだ。いつもiPhoneをさわりながら、最近、老眼(遠視?)な私は、これで画面がもう少し大きければ、どんなにいいだろうと夢想していた。私がインストールしているアプリの中には、あきらかにより大きな画面の方が良いものがたくさんある。

その解決策がiPadだ!

仕事用のアプリなんか動かなくていい!(Illustratorなんか絶対動いてもらっちゃ困る!)
快適にサクサク動いてくれるなら、これ以上の何もいらない!ほっといてもお楽しみのアプリはどんどん増えていくだろうし、それらを動かす端末としては、それで充分だ。

ただ、iPhoneの画面がおおきくなっただけ....。
いえいえ、iPhoneの画面がこんなに大きくなるんだよ!
iPhoneは楽しいでしょ?仕事なんかしないでしょ?仕事しなくても使える奴でしょ?その画面が何倍も大きくなるんだよ!なのに値段はtouch(32GB)の倍もしないんだよ!こんなに素晴らしい事ってある?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年2月 3日 (水)

タバコの次はアルコールだよん?

タバコに対する規制は、どんどん強くなり、税金も上がり、今後、終煙する人は益々多くなるだろう。おそらく、このまま嫌煙家の方々の勝利で、少数派になった愛煙家は、さらに肩身が狭くなるのは間違いない。個人の自由をここまで法律で規制していいものかどうかという議論は別にして、この前例は少し危険な気もする。タバコほど酷くはないかもしれないが、それに類するものは、たくさんあるからだ。

去る、1月22日、ある指針案がWHOの執行理事会で採択された。5月の総会で正式合意する見込みらしい。その指針案とは、「アルコール規制強化」だ。いき過ぎた飲酒による健康面への悪影響だけでなく社会への「害」ととらえ、販売や広告の規制を各国に求め、減らす事をめざしている。つまり、たばこ追放運動に目処がついた後、「関連する死者数が年間250万人にのぼる」と、アルコールに焦点を合わせた模様。その内容は、タバコ規制の内容と非常によく似ている。小売りの日や時間帯の規制、イベントの規制、未成年に対する規制強化、広告の規制、メディアの規制、スポーツ・文化イベントのスポンサー規制、公共の場での飲酒規制、課税、最低価格の導入などなど.....。タバコと大きく違うのは、飲み放題や値引き販売の規制がある事だろう。

そうです。近い将来、飲み放題はなくなっちゃうかもしれません!

それから、ドラマや映画でお酒を飲むシーンも規制されるかも?これは、大きな問題です。バーや料亭のシーンが無くなるかも?そもそも、そういう場所を舞台にしたドラマや映画が成立しなくなってしまう。ひと仕事おえた後、うまそうに「ぷはぁー!」ってビールを飲むシーンなんてもってのほかです。銀座のクラブで、「はい、どうぞ」ってお酒をさし出すシーンもだめ。お銚子を傾けて「まぁまぁまぁ、一杯」なんてシーンはそれこそご法度です。

まぁ、タバコよりは、社会的影響力が大きそうなので、実際問題タバコと同じ道を歩む確立は低いかもしれません。おそらく抵抗勢力も強大でしょうし。それでも、矛先がアルコールに向いたのは事実。実際、今の若者のアルコール離れを考えると、「上司から無理やり飲まされるのは迷惑だ!」という観点から、形勢が逆転しないとも限りません。

一度、味をしめた獣は、必ず、次の獲物を漁ります。
そろそろ「嫌酒権」なんて言葉が聞こえてくるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 2日 (火)

東京の雪。

Img_0842

昨夜、都心にもほんの一瞬、雪が積もりました。その後は雨となり、朝にはすっかり溶けてなくなりました。これは、一番積もっていた時の写真。とても寒かったので、自宅窓からの一枚です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 1日 (月)

包丁始め、俎開き。

R0020523

週末、明治神宮本殿において執り行われた、四條司家による「包丁始め、俎開き。」の儀を特等席で見せていただきました。参列した人々は、私も含め、もちろん正式参拝。本殿の普段拝んでる場所のさらに内側に席が設けられ、雅楽の音色を聞きながら、最高のシチュエーションで、この厳かな儀式が見られるなんて贅沢この上ないと思いました。(風が抜けて、少し寒かったですが.....。)
ゆったりとした時間の流れの中、相変わらず落ち着かない私は、雅楽の笙の前だけに火鉢が置かれていて、暖めながら吹いているのがなぜだろうと不思議に思ったり、横に置いている三方の包丁と箸は、落とした時と日の予備なのかな?とか、まな板の上で調理(?)される鯉は、一滴の血も出ないので、あらかじめちゃんと下拵えされているんだと考えたり(事実、内蔵は外されていました。やはり神前で血はよくないのでしょうか?それにしても一滴の血も出ないとは、完璧な血抜きです。)、この厳かな儀式のすぐ隣では、おさい銭の音と柏手の音、まるで私たちもひっくるめて拝まれているような不思議な感覚でした。普段は外からしか拝めない本殿も間近で見る事が出来、とても得した気分です。

R0020516

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »