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2009年7月10日 (金)

残すこと。

少し前から、「国立メディア芸術総合センター(仮称)」は是か非かという議論がされているが、文化や伝統の残し方について少し考えてみたい。人類の歴史を紐解けば一目瞭然ではあるが、伝統や文化は長い時を実に多くの人々の力や思いで受け継がれ、語り継がれてきている。受け継ぎ繋がっていくことこそ文化であると言えるだろう。カンボジアを旅した時、内乱によって受け継ぐことを無理やり分断された文化を見た。ある種の偏った思想により長い期間、伝統を否定された人々の心には残したくても残すものがわからない悲しみがあった。世界遺産に指定されるような文化を持ちながらその価値がわからなくなってしまい、今は、他国からの援助と価値観によって先人達の文化を再評価している状態だと私の目には映った。それでも、中には自分達の力で、価値観で伝えていかなければならないと考える人々がいた事に少し安堵したが、先は長い道のりだろう。

世界遺産に指定される事は決して悪い事ではない。それは国際的な評価である。そのことに住民達が誇りを持って自らの意思で伝えようとする意識が芽生えるからである。ここで大事なのは「自らの意思」ということだと思う。他国の文化を他民族の伝統を他の国が伝える事はできない。もちろん伝え残すための援助はできるが、そのすべてを博物館にしまい込んで塩漬けにしてしまえば、そこでその文化は死んでしまう。文化や伝統は人々の間で、時に厳格に守られ、時には時代とともに変化しながら受け継がれていく生き物のようなものだと思う。だからこそ、公の大きな力を使って無理やり残すべきではない。

「今、残さなければ無くなってしまった時どうする?」

そういう考えもある。しかし歴史をかえりみれば残ったものより失ったものの方がはるかに多い。あるいは無くなったように見えながら形を変えてしたたかに残っているものも数多くある。大事なのは残す事ではなく伝える事。伝え続けるためには「思い」が無ければならない。この「思い」の強さで文化は受け継がれていく。残念ながら国という単位ではこの「思い」が乏しい。なぜなら、「思い」は個人的なものほど強くなるからだ。もちろん使命感や責任感も大きな要因だが、それらも国を背負うほどの大げさなものではなく親や祖先など比較的個人的なものの方が強い。

つまり、文化や伝統は、残すものではなく結果として残ってきたものなのだと思う。そこには多くの人々の「思い」があり、だからこそ輝いている。形は変わっても内包する「思い」は、人から人へ大きくなりながら伝えられていく。大義をかざして無理に残そうとすれば、その変化を止め、腫れ物に触るように珍重され、変化を受け入れられなくなり、結果的に過去の遺物になってしまう。

「文化や伝統は生き物である。決してはく製にしてはならない。」と、私は思う。

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