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2009年7月31日 (金)

心霊写真に関する素朴な疑問。

いくつかのカメラメーカーからフィルムカメラ(一眼レフ)の開発中止のニュースが発表されて久しいですし、売場に行ってトイカメラを除くフィルムカメラを探すのが難しくなってきました。世の中デジカメ全盛という感じですが、デジカメでも心霊写真は写るのでしょうか?私の勝手な印象ですが、心霊現象というものはどうにもアナログ的なイメージがあり、デジタル技術とは相容れないような気がしています。そんなことをつらつら考えていると頭の中に疑問符(?)が何個も浮かんできました。そもそも心霊現象とはなんぞや?という議論は置いておきます。そこを考え始めるとさらに疑問符が増えるだけですから...。

カメラは正直だと考えられていますが、本当でしょうか?数々の現場で証拠写真として採用されている事を考えるとカメラという機器は、人間の曖昧な感覚とは違い、正確にその実態を写し出していると考えられています。以前、プロカメラマンに、人の目に映っているそのままの夕焼けは写真で撮れますか?と聞いた事があります。答えは否。自分でも実験してみましたが、確かに見たままには撮れません。夕焼けの赤い雲を写し取ろうとしたら太陽は明るくなってしまいますし、赤い太陽を撮ろうと思えば、背景の夕焼け雲は暗くなってしまいます。これはおそらく絞りの問題だと思います。人間の目には夕焼けは赤く、太陽も赤く映ります。カメラでは2種類の写真が撮れるということになります。どちらが真実なのでしょうか?最近の賢いデジカメならこの辺はちゃんとデジタル処理して素晴らしい夕景を、絵に描いたような叙情的な風景をもたらしてくれるかもしれません。あれ?これは真実ですか?

話を心霊写真に戻しましょう。
心霊写真にはその名の通り、霊が写っているのだと思います。私自身、新聞やテレビで多くの心霊写真を見た事があります。残念ながら撮った事はありません。霊(幽霊)の存在は、遠い昔から伝えられてきていますし、江戸時代の浮世絵にも多くの幽霊が描かれています。そのほとんどは白い着物を着て頭に三角巾(額烏帽子とか紙冠と呼ばれるもの)で、足がありません。これは、納棺の時の衣装で、死者が地獄の悪魔から逃れられるようにとか現世の人々の思いがこもったものです。幽霊はそのまま現世に残ってしまった人々なので、その死に装束のまま迷い出てきてしまうということだと思われます。足が無いのは円山応挙が描いた幽霊がルーツとされる説があるようですが、そもそも応挙は写実派なのでそんなものは描かないとか、応挙が生れる前に描かれた絵にも足は無いとか色々言われていますが、とにかく日本の幽霊には足が無いと長い間伝えられてきています。ちなみに外国の幽霊にはちゃんと足があるそうです。これらは想像上のものなのでしょうか?写真が無かった時代、見たものを絵にするのは自然の流れです。では、江戸時代の人にはそう見えていたのでしょうか?なぜ、現代の心霊写真にはそういう姿が写されていないのでしょうか?納棺の際には、宗派にもよりますが今もその装束の伝統は受け継がれています。

でも、心霊写真の世界は違います。その時代に合わせた流行のファッション(?)に身を包んで写っているように思います。その人が生きていた時の服装で写っているとしたら納得できます。だとすると死んでから数年しか心霊写真には写れないのでしょうか?江戸時代の幽霊は現代の写真には写らないのでしょうか?歴史上もっとも多くの犠牲者を出した第二次大戦で亡くなった方々は、さぞこの世に未練を残されていると思われます。その方々はどうでしょう?たまにそういう心霊写真もあるように思いますが、これまでの死者の数を考えると少な過ぎる気がします。

外国の場合はどうなのでしょうか?外国の心霊写真というものを見た記憶が無く、よくわかりません。日本のようにたくさんの心霊写真が撮られているのでしょうか?外国の幽霊には足があると聞きます。では、サイパンなど戦時中に多くの日本人が亡くなった場所ではどうでしょう?そこでは日本人の幽霊がでるのでしょうか?装束はどうでしょうか?軍服のままなのでしょうか?足はあるのでしょうか?また、外国人の幽霊は、日本には来られないのでしょうか?逆に日本の幽霊は外国には行かれないのでしょうか?謎が謎を呼び収拾がつかなくなりそうです。

最後にもうひとつ。幽霊と同じく目に見えないものとして日本では実に様々な妖怪の存在が伝えられています。彼ら妖怪達が写った心霊写真というものを見た事がありません。妖怪は霊ではないので心霊写真とは言わないかもしれません。河童のミイラだとか、鬼の手首だと色々なものが日本各地で伝え残されています。でも、河童の写真とか化け猫の写真とか「あぶらすまし」とか「ぬらりひょん」とか「子泣き爺」とか「砂かけばばあ」とか「唐傘」とか「のっぺらぼう」とか「一反木綿」とか「ろくろ首」とか「目玉親父」とか「ねずみおとこ」の写真は無いのでしょうか?そう遠くない昔に噂された「口裂け女」の写真も見た事がありません。
「宇宙人の写真はあるのに!!」

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2009年7月30日 (木)

人間は、自然にはかなわない。

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しばらく前、テレビで、人類が滅亡した後、1万年のシュミレーションが放映されていた。人という種の繁栄の歴史が、遺産としてどれくらい残るのか?ということである。詳しい数字は覚えていないが、記録というものは数百年もしない間にほとんど風化してしまう。紙は10年と持たないし、より長期に保存が可能といわれるCDやDVDも、人のメンテナンス無しでは寿命が短い。数百年前の紙が現在も残っているじゃないかと言われるかもしれないが、それも適切な環境で保管してのこと。人類が滅亡してしまったらだれも管理する事なくあっという間に朽ち果ててしまうというのだ。そのような歴史的資料を後世に残すため、温度や湿度管理が徹底された保管庫などさまざまな努力がされているが、それらを動かしているのは人間が作り出す電気である。それが断たれた時点で、カビが繁殖し、紙は5年と持たない。光メディアも15年ほどで消える。フィルムも泡状に分解されてしまう。

建物にしてもそう長くはもたない。
人類が滅亡してまず起こるのは、植物の大繁殖。わずか数年で都市のほとんどが植物で覆われ、小さな建物は次々に倒壊する。そのころには地球上に草食動物が増え、それを捕食する肉食動物も増える。人間に依存して生きている犬類は極端に減少するが、依存していない猫類は増えるらしい。どちらにしても植物の繁栄は動物にとって大きな恩恵であることは間違いない。25年で高層ビルのガラスはすべて砕けて落ちる。100年経てばブルックリン橋などのワイヤーが切れ崩落する。250年で超高層ビルも崩壊する。

1000年後の地球には人類が生きた都市が水と緑の楽園にかわるというのだ。では、人類の繁栄の証は何も残らないのだろうか?1万年後の未来、そこに残された人類の遺産は、エジプトのピラミッド、万里の長城、ラシュモア山の彫像(アメリカ大統領の顔)など石の建造物のごくわずかだという。そのころの地球は豊富で綺麗な水に満たされ、緑に恵まれ様々な動物が共生する楽園に戻っている。

結局人間は自然の摂理に反し繁栄をしているという寂しい現実を突きつけられたような気がする。よく、「地球に優しく」というスローガンが掲げられるが、そんな発想こそおこがましい。地球が人類に優しくしてくれなければ人という種は生き残っていけない。地球がほんの少し身震いするだけで、人類には大きな影響がでて滅亡の危機に瀕する。地球に優しくするのではなく、地球の怒りを鎮め、細々とでも人が生きていく環境を残してもらう必要がある。誰のためでも無い、自分たちのために環境を守っていかなければならない。自分たちの首を絞めないために。たとえ人が過ちを犯し、滅亡しても地球は何事も無かったかのように自浄作用が働き本来の姿に戻っていくだけなのである。

所詮、人類は、地球の表面の一部を間借りしているに過ぎない。滅亡か宇宙に飛び出すのかはわからないが、いつかここを去る時には原状復帰で地球に感謝し、返せるようにしたいものだ。

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2009年7月29日 (水)

【ワークショップ】宇高通成が誘う幽玄と叡智そして健康

Nohmai

能舞メディテーション一日セミナー
〜宇高通成が誘う幽玄と叡智そして健康〜

私の面打ちの師である宇高通成先生主催の一日セミナー「能舞メディテーション」が、来る8月22日(土)に東京は千代田区麹町で開催されます。謡いから舞い、発声法、瞑想を通して心身の内面を磨く事が出来るワークショップです。金剛流宗家直流職分であり、重要無形文化財総合指定保持者である能楽師宇高通成先生の指導により本物の幽玄の世界に触れられるまたとない機会です。初めての方でも楽しめる画期的な催しです。詳しくはこちら

能舞メディテーション一日セミナー
〜宇高通成が誘う幽玄と叡智そして健康〜

日時:2009年8月22日(土)
   10:00〜17:00
場所:千代田区麹町区民館
   半蔵門駅(東京メトロ半蔵門線)徒歩2分
   麹町駅(東京メトロ有楽町線)徒歩5分
参加費:1万円
ご用意いただくもの:白足袋又はタビックス、動きやすい服装。

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粗彫り

先週末、面乃会夏の合宿で京都に行ってきました。うだるような暑さとまでは、いきませんでしたが京都らしい蒸し暑い夏を堪能しました。今回のテーマは粗彫り。泥小飛出(でいことびで)に挑戦しました。狐神や妖精など地上を軽快に疾走する超人的な神を現わしているそうです。

粗彫りとは、荒堀りとも書け、細部まで手を加えずにざっと彫るという意味があります。およそどんな彫刻作品もこの段階を経て、細部の表現に移り、仕上げていくものです。今回、粗彫りは七面目になりますが、勢いでざっくりと仕上げていく事が苦手な私にとって毎回試行錯誤する行程です。思えば筆で絵を描く時も全体にざっくりと色を置くのではなく、端から順番に仕上げていくような描き方をしてきました。コンピュータで制作するようになり、色の置き方が変わりましたので今は少し緩和されていますが、昔から勢いよくざっくりと絵を描ける人がうらやましく思っていました。ちなみにそういう理由で私は印象派のような水彩画が苦手です。(観るのはきらいじゃないですが.....。)そんなわたしの苦手意識を克服できる糸口が面打ちにあるような気がしたのも、この世界に飛び込んだひとつの理由です。

そんな粗彫りで、今回、ひとつ気付いた事がありました。面打ちにとって粗彫りとは、単に不必要な部分をざっくりと取っていく作業ではなく、骨格を見つけることではないか?ということです。目や眉、瞼、口や歯という表面的な造形ではなく、顔の中にある骨格を見つけ出し、形を捉える事。さらに言えば、その面(おもて)の形、本質を知るための作業ではないかという事に、今さらながら気がつきました。表面的な要素が無いからこそ、より本質を意識する事ができる。デッサンなどで真っ白な石膏像を描く事と同じ事だと思います。この段階で躊躇し、恐る恐るやっていたのでは勢いのある面は打てないのではないか?とも思いました。週末に見学した金剛家の虫干しで、お家元がお話されていたことに、江戸期の面は、たしかに表面の細かな造形や彩色には当時の技術の粋を施した美しさがあるが、勢いでは室町期のものにかなうものではないということがありました。(能面は室町時代にそのほとんどが完成されていて、江戸期のものはその写しということになります。)

そんな思いが頭の中をよぎりつつ、その表面を透き見て骨格を捉えられる日はいつのことかと思う貴重な時間でした。
日々是、精進ですね。

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写真は、その粗彫りとお手本。こうして並べてみるとまだまだ掴みきれていないのがよくわかってしまって、恥ずかしいかぎりです。

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2009年7月28日 (火)

フラグメントな風景

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自然はこんな形も作り出します。川面に映し出されたビルが風のいたずらと太陽の力でこんな不思議な模様に変化します。街は、自然は、まるで美術館です。ようはそれらを見つけ出せるかどうか。見る力が要求されます。

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2009年7月27日 (月)

日常に潜む不思議な風景

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職業がら(性格?)街を歩いている時いつも何かに気を取られ足を止めてしまいます。何でもない日常に、とても不思議な光景が隠れています。数人で歩いている時も興味を引かれるとついつい目的を忘れて立ち止まってしまい、はぐれる事もしばしば。
写真は、ある建物の内壁。光と影が作り出す不思議な風景です。

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2009年7月26日 (日)

分れて絡んでくっついて。

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ずいぶん小さい時に枝分かれして、それでも絡み合って、ついにはくっついちゃおうとする生命力あふれる樹。

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2009年7月25日 (土)

【crane file : 020】夕闇

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渋谷は東急ハンズ前のクレーン。夜間作業はしないと思うけれど、ちゃんとライトが装備されている。

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2009年7月24日 (金)

まるで戦艦の艦橋。

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どこだと思います?

地上54階、六本木ヒルズは、森タワーの屋上です。
最上階の360度見える展望室は有名ですが、実は屋上にものぼれます。
まるで戦艦の艦橋のように厳つい感じですが、ここからの地上は絶景です。ガラスもないので生で東京が見られます。

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2009年7月23日 (木)

バリアあり。

今朝のワイドショーで「夢のみずうみ村」という介護施設の特集があった。革命的な介護施設という取り上げ方だったが、何より驚いたのはそこに映し出された老人たちの表情が信じられないくらい生き生きとしていることだった。革命的と言われる理由は、

・バリアフリーではない。
・その日の予定は本人が決める。
・目標も本人が決める。
・食事の配膳もできる限り自分でやる。
・カジノがある。等々。

およそ普通の介護施設では考えられない仕組みだった。施設内のいたる所には、家具が「普通」の生活環境のように置かれたままで、通常鬼門とされる階段もある。この介護施設が今、全国から注目されている。その理由は、要介護状態の改善率が異常に高い事があげられていた。通常の介護施設では至れり尽くせり介護士達の献身的な介護のおかげで何もしなくても暮らせる。あらゆる障害を事前に取り除き、危険なものは極力排除する。要介護者達はそこで天国のような生活をするのかもしれない。いや、実際にはそんな生易しいものではないかもしれないし、現実はもっと厳しいかもしれないが、目指すところはそこだと思う。

しかし、考えてみれば夢のような世界では、人は努力をしなくなる。人間は困難に向かう時、はじめて努力するのではないか。2階のカジノに行きたいから階段を上る。自分がしたい事をするために人は困難を苦と感じなくなる。それが自然とリハビリにつながり知らず知らずの内に回復していく。夢のみずうみ村では、リハビリの目標も本人が決める。他人に与えられた目標では達成感が乏しい。自分で定めた目標だからこそ達成した時の喜びは計り知れないし、努力も苦で無くなるのではないか?何より自分に目標を持てる事は幸福だと思う。番組の中で取り上げられていたある方は、車椅子無しでは生きていけないと診断されていた。その男性が歩行器を使い自分の足でゆっくりと少しづつ歩く姿が放送されていた。男性の幸せそうな笑顔の横でわが事のように喜ぶ介護士の表情が素晴らしかった。その男性がホワイトボードに自分自身で書いた目標は「車椅子よさらば!」だ。

カジノにもちゃんとした理由がある。もちろん、賭事は法律で禁じられているので賭けるのはこの施設だけで使用できるクーポン券だが、単なるゲームじゃなく「賭事」だからこそ人はより勝ち負けに一喜一憂する。人と人との触れ合いが感情を高め、生きる活力を生んでいくそうだ。

こんなに生き生きとした介護施設の映像を見たのは初めてだ。NTTのCMじゃないが年老いてなお目標や夢が持てる事が、どれだけ人に生きる力を与えるのかという事を見せつけられたような気がする。

夢や希望が持てず日々淡々と暮らし、精気が無い子供たちが増えている実態を打開するためのヒントがここにあるように思う。現状は、

・障害は親が取り除き、危険なものには近寄らせない。
・その日の予定は親や先生が決める
・進学先や目標は親が決める。
・食事の用意や後片づけは親がする。
・カジノは無いが、一人でできるゲームはある。

どうでしょう?子供たちの生き生きとした笑顔がこれからも見つづけられるでしょうか?

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【crane file : 019】ビルの谷間で。

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鉄骨が複雑に組み合わされたクレーン。ビルの谷間から天に向かって今まさに飛び立とうとする龍のよう。というか、タツノオトシゴのようにも見える。ちなみにタツノオトシゴは漢字で「海馬」ってことは「馬」??龍ではないということ?

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2009年7月22日 (水)

最終形態。

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今まで数度にわたって観測してきたアカパンサスもいよいよ最終形態を迎えた。
これまた、みごとに空力を考慮した形態をしている(と、思う。)地面に落下するためにどれだけのスピードが必要なんだろうか?途中でどんな障害が予想されるというのだろうか?最後まで楽しませてくれる植物だった。

・第1回:なぜ、この形が必要なのか?
・第2回:咲いてきました!
・第3回:さらに咲いてきました!
・第4回:予想外の展開
・第5回:まだ満開ではないけれど。

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2009年7月21日 (火)

いよいよ発売!

Mizuhiki

発表から半年、やっとマヤゴノミから「ココロづけ袋 -MIZUHIKI-」が発売されます。大量生産が難しい仕様となっておりましたので、こんなに時間がかかってしまいました。日本橋三越本店5階/J-SPIRITS/マヤゴノミのコーナーにて本日より発売です。苦労の後を実物でご確認ください。あまり数がございませんのでお早めに。詳しくはこちら

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東京で最も空が広い場所。

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空続きで、皇居は坂下門付近。ここは東京で最も空が広く感じられる場所。(だと私は思う。)

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2009年7月20日 (月)

昨日の虹。

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昨日、19時頃の丸の内には大きな虹が出ていました。ほんの少しパラパラと降った雨が奇跡を起こしてくれました。古の人は、虹を龍と考え、この字をあてていたそうです。虫へんは、昆虫のそれではなく、蛇の虫へんから。ちなみに「虹」は、雄だそうです。

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吸い込まれる!

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じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな節です。

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2009年7月19日 (日)

目が開きました。

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やっと目が開きました。小面進行状況です。あとは細部を整えて、いよいよ彩色に入ります。

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2009年7月18日 (土)

隠せばいいってもんじゃないだろう!

常用漢字表(1945字)に新たに加えられることになっていた191字のうち、「淫」「呪」「艶」「賭」など一部の文字が、教育現場には不適切と指摘を受け、再検討されるらしい。最近の教育、いや、社会全般に共通する問題点ではないかと思うが、この「臭いものには蓋をする」的な思想が、想像力や発想力の低下を招いているんじゃないかと思う。蓋をするだけじゃなんの解決にもならない。物事の根本を理解したうえで個々の判断基準は培われるもの。知らないものは判断できない。

今の教育現場はいったいどうなっているんだろうか?

私には子供がいないので、今の教育現場を間近で感じる事はできない。友人やマスコミの情報で判断するしかないので正しい考えかどうかはわからないが、どうにも教師の質が低下しているように思えてならない。教師をそこまで追い込んだのは、保護者や教育委員会かもしれないが、知識や教えるテクニックは身についているが人格的には何か足りないように思える。先生という言葉は、文字通り先に生きた人。人生経験豊富な先生から学問だけではなく生き方までも学ぶものではなかったのか?学ぶという事は、教えられた事をただ覚えるということだけではない。先生の生き様を感じ、そこから学び取るものではないだろうか?だからこそ先生は尊敬される。もちろん、それでは個々に差が生じる。各々興味の対象が違い、理解力に差があるのだから学び取れるものも違ってくる。それでは、みなが「平等」に学べない.....。この「平等」という言葉がくせ者だ。この言葉はとても良い響きを持っている。この言葉に酔い肝心なものの本質を見失ってしまうほど強い魅力がある。結果、無難にすまそうという風が吹く。

先生だって人間だ。良い部分もあれば悪い部分もある。正しい事もあれば間違う事だってある。しかし、先生は人生の中で遭遇する様々な出来事を己の能力や、さらに先人に助けられ乗り越えてきた経験がある。学問をするということにおいて間違いなく先生なのだ。「友達のような先生」なんてちゃんちゃらおかしい! 友達はまわりにたくさんいる。先生がすることじゃない!子供たちに平等を教えるため自らも平等に子供に戻ってどうする?

たしかに人を教え導く事はとても難しい。だからといって「先生と一緒に学ぼう」じゃおかしい。「先生から何かを学んで欲しい」にはならないのだろうか?子供は大人より理解力が乏しいから手を取って導いてあげないといけないのかもしれない。しかし、子供は大人が見過ごしてしまうような些細な事にもその驚異的な集中力で気付くものではないだろうか?そんな子供の能力の目を積んでしまってはいけない。だからこそ先生は先生でいなければならいんじゃないだろうか?

心配なのは、今の先生が、はたして子供たちの模範となるような人生経験を豊富に積んでいるだろうかということ。「友達のような先生」とともに温室でぬくぬくと育ってきて、保障がしっかりしている公務員がいいと教師の職を選んだ人達でない事を祈りたい。

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2009年7月17日 (金)

巣立ちの季節

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低い空が少し慌ただしくなってきました。そろそろ巣立ちの季節ですね。

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2009年7月16日 (木)

さらに実験してみた。

Miura_koomote

Natsuko_koomote

面乃会東京で同門のお二人からそれぞれ小面をお借りして実験してみました。どちらも一面目の作品ですので上手にうつせているかどうかを言及するのは酷な話です。を含め同じ小面の「うつし」ですが、それぞれ作り手の性格が反映されているようでとても興味深いです。写真左側が完成形、真ん中は「陰」の顔(右側を反転して合成)写真右側が「陽」(左側を反転して合成)になります。「陰」は鋭利に「陽」はふくよかには、ちゃんと表現されています。ちなみに上を作られたのは紳士的で人格者の男性、下の小面はお転婆な女性の作です。

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2009年7月15日 (水)

うつし。

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江戸時代初期に能楽が確立してから現在に至るまで能面は「うつし」の文化が続いていいます。能面は現在も数多く作り続けられていますが、そのほとんどが江戸初期に確立された百数十種類を元にうつされています。つまり、まったくの新作面というものは限られた用途で使われる以外作られていないということになっています。元の能面は「本面」と呼ばれ、現在も大事に保管されるだけではなく、実際に舞台で使われることもあります。

だからといってまったくの「コピー」が作り続けられているわけでもありません。「うつし」とは、「コピー」ではありません。ある厳格な決まりのなか、作者の思いを込める部分は限られてきますが、だからこそ、そこにすべての思いを込めて面を打ちます。それは、ある種、本面への挑戦でもあるかもしれません。400年以上の長い時間、多くの面打ち師がそれに挑戦してきました。中には本面と並び称されるほど名のある面も多く存在します。

そもそも「うつし」とはどういうことでしょうか?

ある文献に書かれていた事を参考に私なりの解釈をしてみます。「写し」「映し」。この二つの言葉は同じ音ですが、意味はまったく違ってきます。「写し」は、模写する事、すなわちコピーです。「映し」とすると、そのものに投影するという意味を持ちます。桧でできた物体である面に、表現される人物を映し、己を映すのかもしれません。また、「移し」とすれば、魂の入れ物としてそこに移すのかもしれません。

お能的に考えれば、「現し」ともいえるかもしれません。
そもそも実体の無いものを現(うつつ)の世に現わすことなのかもしれません。

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2009年7月14日 (火)

やはり月には雲が似合う。

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月は月だけでも美しいが、雲があるとさらに表情豊になります。そういえば、夕焼けも雲があった方が劇的になりますね。雲は偉大だ。

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ビグザム

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丸の内にて。みなまで言うまい(一般的にはちょっと恥ずかしいから)。わかる人だけほくそ笑んでいただければ.....。(これを作られた作家さんごめんなさい。)

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2009年7月13日 (月)

【crane file : 018】都会の中の動物園

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まるで都会の真ん中に突然現れた動物園のようなクレーンの風景。3頭のクレーンがめいめい長い首を一杯に伸ばし、口を開け何か叫んでいるような風景。そのうち親クレーンが餌でも運んできそうな感じです。クレーン(crane)の語源は「鶴」、タンチョウヅルの求愛の動きにも似ている気がします。

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2009年7月12日 (日)

どうしても赤くなりません!

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夕闇迫る秋葉原の風景。なんのことはない夜景なんですが、納得できない点が一箇所。それは、石丸電気の電飾看板です。建物上も右下の縦位置のものも、肉眼で見ると「赤」なんです。右側の鉄橋に映り込んでいる色も赤です。一枚撮影して、不思議に思ったので何度もシャッターを切りましたが、やはり黄色くなります。謎です。だれか理由を教えてください。

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2009年7月11日 (土)

この赤はどこからきたの?

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なんという名の植物なのかはわかりませんが、不思議です。もちろん、葉が白く葉脈が緑というどこか反転したようなところもそうですが、私の気になったのは中ほど、葉の切れ目のあたりにある赤い色です。すべての葉についていますので、誰かがいたずらをしたわけではなさそうです。なぜここにだけ、しかも申し訳程度にほんの少しだけ。これが自然なのか、品種改良の成せる技なのかはわかりませんが、不思議です。

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2009年7月10日 (金)

残すこと。

少し前から、「国立メディア芸術総合センター(仮称)」は是か非かという議論がされているが、文化や伝統の残し方について少し考えてみたい。人類の歴史を紐解けば一目瞭然ではあるが、伝統や文化は長い時を実に多くの人々の力や思いで受け継がれ、語り継がれてきている。受け継ぎ繋がっていくことこそ文化であると言えるだろう。カンボジアを旅した時、内乱によって受け継ぐことを無理やり分断された文化を見た。ある種の偏った思想により長い期間、伝統を否定された人々の心には残したくても残すものがわからない悲しみがあった。世界遺産に指定されるような文化を持ちながらその価値がわからなくなってしまい、今は、他国からの援助と価値観によって先人達の文化を再評価している状態だと私の目には映った。それでも、中には自分達の力で、価値観で伝えていかなければならないと考える人々がいた事に少し安堵したが、先は長い道のりだろう。

世界遺産に指定される事は決して悪い事ではない。それは国際的な評価である。そのことに住民達が誇りを持って自らの意思で伝えようとする意識が芽生えるからである。ここで大事なのは「自らの意思」ということだと思う。他国の文化を他民族の伝統を他の国が伝える事はできない。もちろん伝え残すための援助はできるが、そのすべてを博物館にしまい込んで塩漬けにしてしまえば、そこでその文化は死んでしまう。文化や伝統は人々の間で、時に厳格に守られ、時には時代とともに変化しながら受け継がれていく生き物のようなものだと思う。だからこそ、公の大きな力を使って無理やり残すべきではない。

「今、残さなければ無くなってしまった時どうする?」

そういう考えもある。しかし歴史をかえりみれば残ったものより失ったものの方がはるかに多い。あるいは無くなったように見えながら形を変えてしたたかに残っているものも数多くある。大事なのは残す事ではなく伝える事。伝え続けるためには「思い」が無ければならない。この「思い」の強さで文化は受け継がれていく。残念ながら国という単位ではこの「思い」が乏しい。なぜなら、「思い」は個人的なものほど強くなるからだ。もちろん使命感や責任感も大きな要因だが、それらも国を背負うほどの大げさなものではなく親や祖先など比較的個人的なものの方が強い。

つまり、文化や伝統は、残すものではなく結果として残ってきたものなのだと思う。そこには多くの人々の「思い」があり、だからこそ輝いている。形は変わっても内包する「思い」は、人から人へ大きくなりながら伝えられていく。大義をかざして無理に残そうとすれば、その変化を止め、腫れ物に触るように珍重され、変化を受け入れられなくなり、結果的に過去の遺物になってしまう。

「文化や伝統は生き物である。決してはく製にしてはならない。」と、私は思う。

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2009年7月 9日 (木)

鉄の電柱

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私の住んでいる麻布十番は、古い街で江戸の昔、下町の風情が今も残っていますが、大江戸線と南北線が開通し、陸の孤島じゃなくなり、六本木ヒルズもでき、少しづつ町が様変わりしてきています。古い老舗が1件、また1件と姿を消していくのは悲しいことです。
そんな町に突如現れた鉄製の電柱。朝、通りすがりに何やら工事をしているなとは思っていましたが、夜には鉄の電柱に生まれ変わっていました。電柱とはコンクリートが相場、鉄は珍しいんじゃないかと思います。しかも、全部が変わったわけではなく、たった1本だけ。ちょっと謎です。さすがに一体構造でというのは難しいらしく、3本の鉄パイプがつなげられています。

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2009年7月 8日 (水)

自分を壊す。

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あしたばから臨む相模湾

ペンションあしたばのオーナーでもある彫刻家の井上さんのアトリエでお話しを伺いました。「自分を壊さなければ芸術はできない!」壊すといっても物理的に壊すわけではなく、ようは自分の殻を壊すということです。芸術に打ち込めば打ち込むほど、自分の理性が本質の邪魔をするというように理解しました。「綺麗に仕上げよう。」「上手に作ろう。」では無く、自分の本質から湧き上がるものと素直に向き合い、そのままを形にすること。それが難しい。どうしても良い子ぶって、表面を繕ってしまう部分がなかなか崩せません。「芸術家は酒を飲めた方が良い。」とも井上さんは言います。「飲んで自分をさらけ出して己と向き合う。」真意は決してお酒を飲めない人を揶揄しているわけでも無く、お酒の力を借りるという弱気でもありません。それくらい豪放に生きろと教えられた気がします。豪放でありながら作品に向かう時は繊細さも必要です。酒の飲めない私にとって、それに代わるものが何なのか、はたまたやはり酒なのか?それはわかりませんが、とにかく、まずは自分の本質と真剣に向き合うことから始めようと思います。

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これが美術館なら

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作品番号:A-017
タイトル:至上の愛
作者:麻布十番商店街の某店
...............。

これはアートではありません。ゴミでもありません。単なる店舗改装のため路上に放り出された荷物です。

こうするとアートになるかな?
後は難しい言葉で上手に解説しなきゃ。

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2009年7月 7日 (火)

【crane file : 017】寄生するクレーン

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寄生しているわけではありませんが、数本の足でビルにしっかりとしがみつき登っていくようで、生き物のような感じがします。おそらく、向こう側にももう一頭いるのでしょう、頭をちらっとのぞかせています。

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これは一種のアートかもしれない。

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港区一の橋の首都高工事風景。
見渡す限り、首都高にシートがかけられ、まるでアートな風景。これがもう少しきれいなシートならまちがいなくアート。アートは、アーティストの意思があって初めてアート足る。と言えば、これままったくアートではないし、誰もこれをアートだとは思っていないだろう。でも、この風景に気付いた時、私は日常ではない何かを感じた。

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2009年7月 6日 (月)

右と左は別の人。

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昨日のエントリーで触れた能面の意図的な左右非対称の話をわかりやすく実験してみました。元写真は、昨日のエントリーです。写真左は右側を写真右は左側を複製し、反転してくっつけています。そもそも人間の顔も左右非対称なので同じような実験をすると別人が2人出来上がります。人間の場合は自然にそうなっているのですが(一説には生活習慣も影響するらしいです。)、能面の場合は、その演出から意図的に違う表情を持たせています。右側(写真左)は怪しく憂いを持たせ、左側(写真右)は穏やかな表情に。それにはその舞台設備と能そのもの表現する思想が深く関わっているのですが、それはまたいつか詳しく書きたいと思います。

写真は、まだまだ半人前以下の私の作品なので、狙い通り表現できているかどうかは怪しいですが、それでもまったく違う表情になっています。ちなみに髪の分け目がズレているため左の写真には分け目が無く、右の写真には分け目が重なっていますが、これは私が下手なのではなく、ちゃんと意図的にズラしてあるのです。相対する二つの表情が混在しているからこそ能面は神秘的なのです。

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2009年7月 5日 (日)

離れて見よう!

Koomote

日本の美術館では、その狭さと人の多さのせいで、作品から1メートル、ひどい時は数十センチの距離で見ることを余儀なくされます。みんな一緒に離れればいいのですが、ちょっと距離を空けるや否や次々と前に人が入ってきてしまいます。そうして、作品に顔を近づけ「すごいなぁ」「細かいなぁ」「筆のタッチが.....。」と重箱の隅をつつくような見方をします。画家に限らず作家は制作過程でも作品を離れて見てみます。そうして気になるところを調整していくわけです。つまり、作品は離れて見るもの、近くで見ていては全体が見えないんです。もちろん、作家は腕の届く範囲で制作するわけですから、その距離で最善の表現をすることもあります。しかし、離れて見てその細部の表現が必要でなかったり、場合によっては神経質でかえって全体像を壊しそうな場合は、あえてその部分を削ります。そうして作られるものを至近距離で見るのはナンセンスです。それは作家の捨てた部分を見ていることになるのですから。

もちろん、芸術の鑑賞方法は、人それぞれ自由ですから、どう見なきゃいけないという規則はありません。近くで見ることがまったくダメというわけでもありません。そこには作家の苦悩や試行錯誤が見て取れるわけですから、そういう意味では見ても面白いと思います。(個人的にはちょっと見られたくない部分を見られているようで恥ずかしいですが.....。)とはいえ、それだけでは作品の本質を見ることはできません。本当の意味で作品に触れ合うことも、作家の思いを受け取ることもできないのではないかと思います。

今年の春、日本橋の三井記念美術館に三井家所蔵の能面展を見に行きました。花の小面を筆頭に、貴重な能面の数々が惜しげも無く展示されていて素晴らしい展示会でした。しかし、ここでもほとんどの人が、ガラスケースに顔をくっつきそうなくらい近づけて見ていました。能面は舞台で使用するもの、離れて見てこそその真価がわかります。(本当は能楽師が付けて舞ってこそなのですが、それは叶わぬ夢ということで...。)特に能面は、その道具としての性質上、演出のため意図的に左右が違う作りになっています。最低でも3mくらい許されれば5mくらい離れて、右から左から見比べてみると、近くで見るのとは全然違った表情を見せてくれます。(写真は「花の小面」ではなく、私の作った小面です。お間違え無きよう。花の小面はもっとかわいいです。)

しかし、日本の美術館は、離れて見ることをなかなか許してくれません。特に企画展は狭いスペースにこれでもかってくらいの作品数を展示し、これでもかっていうくらい人が行列して観賞します。これでは離れて見るどころか、じっくり見ることもできません。そういうときは人気のない常設展に行きましょう。そこならいくらでも離れて見ることができます。常設展にも少なからずいい作品はあります。日本の美術館は、もう少し常設展に力を注いで欲しいとも思います。世界最大の美術館(博物館?)であるルーブルは、そのほとんどが常設展です。いつ行っても見たい絵がある。そんな美術館をもっと増やして欲しい。そうすれば、もう少しましな環境で芸術と触れ合うことができるのではないでしょうか?

さあ、離れて見ましょう。作家と同じ目線で作家と対話をしましょう。きっと今まで見えなかったものが見えてきます。

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2009年7月 4日 (土)

裏通りで天使を発見。

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表通りで教会の扉に目を引かれた後、裏通りの住宅街で天使を発見。「しぃー」ってしぐさに思わず音を立てないように歩く自分に気付きました。「静かに!」とか言葉の看板よりよほど気が利いている。

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2009年7月 3日 (金)

思わず手をかざしてみた。

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表参道を歩いていて、ふと目が留まった教会の扉。気になるとつい確かめないといれない性格の私。何が気になったかというと扉中央のクロス。これは扉の色なのか?はたまた違う効果なのか?エッジのボケ具合が妙に気になり、いてもたってもいられなくなりました。約束の時間には少し遅れぎみだけど、ここで見過ごすわけにはいかない。まわりを行き交う人々の目を気にしながら、突然、扉が開いて中から人が出てきたらどうしようかと考えつつ扉に近づく私。近づいてみると、光の効果のように見えました。ひさしのライトから十字の光が扉に当てられているようです。そうっと手をかざして確認。納得です。後は撮影をし、そそくさと待ち合わせ場所に急ぎました。その後、さらに二箇所で足止めをくらい、結局約束の時間を少しオーバーしてしまいました。

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2009年7月 2日 (木)

巨大ロボット大はやり!

お台場の等身大ガンダムを筆頭に各地でロボットが(ガンダム的にはモビルスーツと表現しないと)大はやりのようですね。まだお台場にも行けていないけれど、8月には神戸に鉄人28号が等身大で登場するようです。私は両方をほぼリアルタイムで観ていた数少ない世代だと思います。鉄腕アトムに始まり、ガメラもゴジラもウルトラマンも仮面ライダーもマジンガーZもすべてリアルタイムでした。これだけルーツ的なものがどっと出てきた世代、まるでカンブリア紀(カンブリアン・エクスプロージョン)のような時代を生きてきたんだとつくづく感じます。この際、それら全部をどんどん日本国中に実物大で作っていったら、日本は面白いことになるような気がします。国営漫画喫茶と揶揄される「国立メディア芸術総合センター(仮称)」なんかより、よっぽど効果的な観光資源になるでしょう。
私は、京都駅に行くたび、あのドーム状の天井を見上げ、ガメラってこんな大きさなんだと想像を膨らましています。(平成ガメラ:ガメラ3 邪神<イリス>覚醒)こんな楽しいことはありません。もっとどんどん実物大を作って欲しい!!と、思います。

鉄人制作風景
まるで、本物を作っているみたいです。ガンダムは、コロニーの最先端の研究所なんかが似合いますが、鉄人はこういう鉄工所から生れる気がします。イメージぴったりです。

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2009年7月 1日 (水)

【crane file : 016】レトロな感じ。

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港湾型クレーンの変わり種。遊覧船の船着き場にあるクレーンです。場所はララポート豊洲にある水上バスの発着所。レトロなイメージを醸し出しています。作りは今より大げさです。こうしてみると現代のクレーンは鉄骨の強度向上とか構造的な進化が感じられます。ララポート豊洲には平木浮世絵美術館という小さな美術館があります。

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